文化 CULTURE

織田作之助の文学

2015.05.16
生活のリアリティ

 織田作之助は19歳の時、三高の『嶽水会雑誌』に発表した初の評論「シング劇に関する雑稿」の中で、「単なる観念でも、象徴でもない、リアリティとは、我々の認識せるものの姿である。これを表現するところにリアリズムの頂点がある」と書いている。この考えは織田が常に意識していた汎用的指針であり、登場人物の思想や信条よりも生活について細かく書くのは、彼にとって欠くべからざるリアリティであったからにほかならない。世の小説の中には、いったいこの主人公はどんな所でどうやって生活しているのかと疑問を抱かせるものが少なからずある。困った時は、主人公を金持ちにしてしまうのが定石だ。織田の作品ではそういうことは起こらない。お金のこと、地名のことがきちんと記される。これはリアリズムであるばかりでなく、多くの読者の共通認識に訴える手段でもある。大阪人気質の一言で片付けるのは安直だろう。私が大阪人でもないのに彼の作品に惹かれるのは、そこに生きた人間の生活を見るからだ。

 芥川賞候補になった「俗臭」(『海風』1939年9月)や映画化もされた代表作「夫婦善哉」(『文芸』1940年4月)は、持ち金の増減がドラマの一要素となり、「放浪」(『文学界』1940年5月)にいたっては生死に関わる緊迫感を生んでいる。ここでは文吉が大阪で持ち金30円を急速に減らしてゆく過程が家計簿のように記され、その残金の推移がサスペンスフルな雰囲気を形成する。

「大門通を、ひょこひょこ歩いた。五十銭で書生下駄を買った。鼻緒がきつくて足が痛んだが、それでもカラカラと音は良かった。一遍被ってみたいと思っていた鳥打帽子を買った。一円六十銭。おでこが隠れて、新しい布の匂がプンプンした。胸すかしを飲んだ。三杯まで飲んだが、あと、喉へ通らなかった。一円十銭。うどんやへはいり、狐うどんとあんかけうどんをとった。どちらも半分食べ残した。九十二銭。新世界を歩いていたが、絵看板を見たいとも、はいってみたいとも思わなかった。薬屋で猫イラズを買い、天王寺公園にはいり、ガス灯の下のベンチに腰かけていた」
(「放浪」)

 文吉の死後、弟の順平も200円の金を手に生玉前町の養家を飛び出して放浪し、尾羽うち枯らして別府に流れ着き、小料理屋で河豚をさばいたばかりに人を死なせて徳島と仙台の刑務所に入れられ、出所後に21円の持ち金を手に大阪に帰ってくる。およそ小説の主人公にふさわしくないような、信条も克己心も何もない、どうしようもない人物で、性格に共感できる人は少ないだろうが、実録的に綴られたその人生譚には、お金がなくなることの恐怖が生み出すリアリティがある。そのくせ文章のテンポは良く、語り口にユーモアがあり、しみったれた臭みがない。

嫉妬のリアリティ

 もっとも、「放浪」は極端な例である。持ち金の増減にドラマ的緊張をはらませるやり方は、登場人物の人生を描く上での方法の一つにすぎない。織田作之助の関心は家計簿的な記録にあるわけではなく、人間のリアリティを表現することにある。大事なのは、お金を遣う行為そのものではなく、その要因となる人間的感情や衝動だ。「放浪」の文吉の場合は、都市に暮らす弟に対してコンプレックスや嫉妬を抱いていた。「雪の夜」(『文芸』1941年6月)や「競馬」(『改造』1946年4月)の主人公を身の丈に合わない情熱家にするのも、主に嫉妬心である。この時、彼らは金銭感覚から自由になっているわけでも何でもないが、気持ちの上では情熱がお金を超越している。そういう人間の傾向を描くことに織田は長けていた。

 「雪の夜」は、堅物だった印刷所の主人・坂田がキャバレー通いで身上をつぶし、易者になる話である。彼はキャバレーの女のために破滅したというよりも、己の独占欲や嫉妬心を抑えきれずに破滅した。そして、かろうじて愛する女と一緒になったことに喜びよりも侘しさを感じ、易者として生計を立てる不幸をかみしめながらも、そんな境遇が自分の安住の居場所であることを悟るのである。「競馬」でもやはり真面目な中学教師・寺田が酒場の女・一代に惚れて結婚するが、妻はまもなく癌で亡くなる。妻が過去の男と競馬場で会っていたことを知った寺田は、嫉妬心に悶えながら競馬場へ行き、一代の名前にある「一」の馬番に賭ける。当てようと外れようと、その行為のために生きているとでもいうかのように何度も賭ける。それは競馬の愉しみとはまた別の境地である。

 先に引用した言葉を用いると、織田作之助にとってはこのような人間の嫉妬心も「リアリティ」だった。それは彼が三高生だった頃、カフェの美人女給だった宮田一枝と恋に落ち、パトロンの世話になっていた一枝の過去に激しく嫉妬したことに起因している。織田は一枝と結婚した後も、一枝が亡くなった後も、嫉妬心を忘れることはなかった。劇作に熱中し、「饒舌」(『嶽水会雑誌』1934年12月)や「モダンランプ」(『海風』1936年12月)を書いていた頃は、その感情が濃厚である。「モダンランプ」には一枝そのものの経歴を写し取ったような人物が登場し、作者の生々しい感情が奔出しているが、戯曲としてうまく昇華されている。にもかかわらず、戦後に「競馬」を書く時も、『土曜夫人』(『読売新聞』1946年8月〜12月、未完)を書く時も、織田は嫉妬し続けたのである。まるでその記憶を失ったら創作の原動力までも失うのではないかと考えているかのように、自ら嫉妬という感情にこだわったのだ。

 「夫婦善哉」「続 夫婦善哉」の蝶子にしても、浪費家の柳吉がいなければ相当の資産家になっていたかもしれない才覚の持ち主なのに、愛情の深さというよりは嫉妬深さゆえ、甲斐性なしの柳吉と離れられない。商売自体への執着は特に無く、嫉妬することや心配することが己の生存の柱になっているかのようである。見方によっては、柳吉の方が蝶子に引きずられ、人生を狂わされているようにも思える。

毛利豹一の造型

 オダサクといえば太宰治、坂口安吾と並ぶ無頼派で、1940年代に活躍した流行作家だ。学生時代から喀血を繰り返し、そのくせ弱みを見せず軽妙に振る舞い、ハッタリが好きで、スタンダールと井原西鶴を礼賛し、志賀直哉に牙を剥き、ヒロポン中毒になり、周囲をハラハラさせながら、1947年に33歳の若さで亡くなった。「聴雨」(『新潮』1943年8月)や「勝負師」(『若草』1943年10月)や「可能性の文学」(『改造』1946年12月)などで棋士・坂田三吉への共感を示したように、型にはまらない大阪人として、横紙破りの作品で近代日本の「一刀三拝式の心境小説的私小説」(「可能性の文学」)を打倒することが彼の宿願だった。しかし、これは事実の半面であり、織田自身が作り出したパブリック・イメージである。彼は自分がヒロポンを打つところをわざわざ写真に撮らせるような男だった。

 スタンダールの影響を受けているその作風は、単に横紙破りというよりもっと複雑なもので、簡潔に話をまとめるのが得意なストーリーテラーとしての顔を持つ一方、心理主義的な書き方にも才能を示した。いかにも近代文学らしい繊細な心理描写を好み、煮え切らない人物の苦悩、葛藤を延々と綴る長編に情熱を燃やしたこともあったのだ。それが初期の短編「雨」(『海風』1938年11月)をベースにして書かれた発禁本『二十歳』(1941年2月)と『青春の逆説』(1941年7月)である。『二十歳』は前編で、『青春の逆説』が後編、2冊でひとつの物語を成している。1946年6月には1冊にまとめられ、『青春の逆説』として出版された。

 執筆当時20代後半だった織田は、美貌の主人公・毛利豹一を造型する際、自分自身とジュリアン・ソレルを混ぜたような性格を与え、プライドが高く、何をするにも自尊心が邪魔をして思い切れないその心理の動きを細かく追い、さらに性格批評を行っている。織田がこの人物を精魂込めて作り上げたのは明白であり、彼自身が「ジュリアン・ソレル」(『世界文学』1946年9月)で「私は『二十歳』『青春の逆説』などという作品で、ジュリアンの爪の垢のような人物を描いた」と書いているのは一種の照れ隠しと見るべきだろう。むしろジュリアンからナポレオンという指針を取り払ったような人物と解するべきである。豹一には尊敬する人物がいない。目標もない。右翼でも左翼でもない。掟にも従いたくない。この人物設定は当時よりも現代の方が受け入れやすいと思われる。

 前編『二十歳』は貧しい少年時代から三高時代を経て、日本畳新聞社を辞めるまでの話で、燻った青春模様が描かれる。後編『青春の逆説』は恋愛心理小説の趣で、東洋新報の記者になった豹一が堕胎事件で映画界から追放された元女優と会い、恋に落ち......という展開になっている。「モデルはない」とことわってはいるが、実際は友人・知人の多くがモデルにされた。その点を考慮に入れるなら、渾身の「心境小説的私小説」と評しても差し支えあるまい。映画風の場面転換を行ったり、心理描写もこなれていたりと、筆運びも周到である。しかし残念なことに、作者のテンションは最後までもたず、終盤になって突然端折り、やや強引に前半の記録的な語り口に戻して話を終わらせている。まるで枚数に制限があったので仕方なく端折ったとでもいうような呆気なさだ。実際に何があったのかは分からないが、もっと腰を据えて書けば完成度の高い作品になったはずである。
続く
(阿部十三)


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織田作之助(書籍)

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