音楽 CLASSIC

エミール・ギレリス 〜鉄の意思のピアニスト〜 [続き]

2014.04.23
協奏曲の録音

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 ギレリスのピアニズムには確かな造形感があり、胸に響く重量感、輝かしいまでの明晰さがある。しかし、グリーグの『抒情小曲集』で聴くことが出来るしっとりとした味わいと甘美さ、プロコフィエフの「束の間の幻影」で聴くことが出来る胸のすくような跳躍感や諧謔的な表現の巧さもギレリスの特性である。
 若い頃(1930年代から1940年代にかけて)の録音を聴くとテクニックの物凄さが際立っていて、例えばリストのハンガリー狂詩曲第9番など、その鬼気迫るパワーに圧倒される。他方、ショパンのバラード第1番やピアノ・ソナタ第2番では、繊細なフレージング、しっとりとしたメランコリーで魅惑し、劇的なクライマックスを形成する。ギレリスが成熟した音楽家であることがよく分かる演奏だ。
 先にふれたようにピアノの音色も美しく、人肌のぬくもりと透明感が同居している、としかいいようのない響きで聴き手をぞくぞくさせる。1970年代以降の録音は、マイクの影響もあってか、特にそういう美質が出ているようだ。

 ピアノ協奏曲に関していえば、ギレリスが楽しげにオーケストラと対話している演奏はさほど多くない。どちらかというと、オーケストラと共に熱く戦っているイメージ、あるいはピアノ一台でオーケストラ全体を圧倒しているイメージの方が強い。突然リミッターが外れ、ミスタッチもお構いなしに驀進することもある。
 ただ、カール・ベームとのモーツァルトのピアノ協奏曲第27番(1973年録音)のような例もあるから一筋縄ではいかない。ここでは純粋と簡素の極みのような演奏を披露しているのだ。耳を傾けているだけで脱力してしまうほど美しい。ギレリス自身にとってもこれは会心の出来だったのではないかと思われる。

 ほかに、アンドレ・クリュイタンスとのサン=サーンスのピアノ協奏曲第2番(1954年録音)とラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(1955年録音)、フリッツ・ライナーとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(1955年)、ユージン・オーマンディとのショパンのピアノ協奏曲第1番(1964年録音)、ジョージ・セルとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(1969年ライヴ)、オイゲン・ヨッフムとのブラームスのピアノ協奏曲第1番(1972年録音)、ズービン・メータとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(1979年ライヴ)も、音楽的充実度と指揮者との相性の良さを感じさせる名演奏である。
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」は、一般的にはジョージ・セル&クリーヴランド管と協演した録音(1968年録音)が高く評価されている。円熟期を迎えつつあるギレリスのピアノは力強いだけでなく、清澄さも奥深い柔和さもあり、セルのサポートも含めて言うことなし。ライヴ盤では、訪ソしたエーリヒ・ラインスドルフ&ニューヨーク・フィルとの協演(1976年ライヴ)が濃密で、なりふり構わぬ烈しさで聴き手を高揚させる。

独奏曲の録音

 ソロのピアノ作品に関しては、1935年に最初の録音を行ってから50年の間に、数多くの音源を遺している。その中で、一つの作品を表現する上でこれ以上はないと感じさせる演奏は、J.S.バッハの「イタリア風のアリアと変奏」(1959年ライヴ)、スカルラッティのソナタ集(1955年録音)、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」(1980年録音)と第29番「ハンマークラヴィーア」(1982年録音)、シューマン(タウジヒ編)の「密輸入者」(1935年録音)、リストのハンガリー狂詩曲第9番「ペシュトの謝肉祭」(1951年録音)、グリーグの抒情小曲集(1974年録音)、メトネルのピアノ・ソナタ(1954年録音)、プロコフィエフの「束の間の幻影」(1950年ライヴ)とピアノ・ソナタ第8番「戦争ソナタ」(1962年ライヴ、1967年ライヴ、1974年録音)、ハチャトゥリアンのピアノ・ソナタ(1963年ライヴ)だ。1984年1月26日に行われたモスクワ・ラスト・リサイタルの音源も良い。体力的な衰えは隠せないが、「ハンマークラヴィーア」のアダージョは驚くほど澄んでいて、感動的である。

 円熟期を迎えると、多くのピアニストは情熱の迸りをある程度抑制しはじめるが、ギレリスの場合、死ぬまで3つのベクトルを持ち続けていた。すなわち、美とメランコリーで魅了するピアノ、大いなる威厳とスケール感で魅了するピアノ、叩きつけるような打鍵と没我的な爆発力で魅了するピアノである。体力が低下した後も、「演奏会の数を減らすことは出来ない」といってステージに上がり続け、その都度、完全燃焼していた。1980年以降は、リサイタルの後、楽屋で燃え尽きたような状態になっていたらしい。

 プロコフィエフのピアノ・ソナタ第8番とハチャトゥリアンのピアノ・ソナタは、ギレリスのために書かれた作品ということもあり、確信に満ちた解釈と打鍵が印象的である。切羽詰まったところから噴き出すような強音もたまらない。ここまで没我的で、高揚感に満ちた演奏もそうそうないだろう。1961年10月10日に演奏されたリストのロ短調ソナタ、1962年4月9日に演奏されたストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」も絶好調で、華麗な技術、シンフォニックな響き、絶妙なアゴーギクで聴き手を満たす。
 ちなみに、1962年4月9日のモスクワ・リサイタルでは、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」のほかに、プロコフィエフの8番、ジロティ編曲によるバッハのプレリュード(ギレリスの愛奏曲)、ラフマニノフの前奏曲作品23の5も披露しているが、総じて出来が良い。ラフマニノフの前奏曲の壮絶さ、濃厚さ、彫りの深さなど、ほかの演奏家では聴くことが出来ないものだ。

 ただ、ギレリスはラフマニノフの独奏曲をそこまで多く録音していない。せめて前奏曲集を録音していれば、と無いものねだりをしたくなる。バッハの平均律クラヴィーア曲集もハイドンのピアノ・ソナタ全集も録音してほしかった。プロコフィエフのピアノ・ソナタ全集が無いのも残念だ。ギレリスのピアノで聴けばきっと素晴らしかったろう。
 モーツァルトの独奏曲については、造型がかっちりしていて、音色の美しさも申し分ないのだが、響きが濃縮されすぎているというか、陰翳が深すぎるように感じられる。ギレリスの神経質な面が出ているのかもしれない。ただ、ほかのピアニストでは聴けないモーツァルトであることは間違いない。

音楽の力のみで満たす

 室内楽では、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」(1952年録音)が本当に素晴らしい。ヴァイオリンは義弟のレオニード・コーガン、チェロはムスティスラフ・ロストロポーヴィチである。ギレリスのピアノは暗く、重みがあるが、どこか幻想的で美しく、時折霧の中から放たれる光のように輝き出す。その強い響きには心を揺さぶられずにいられない。聴き手に人間の宿命を感じさせ、沈思させるピアノである。

 音楽面でも、人生面でも、彼は周囲の評価を気にすることなく、自分が決めたことをやり抜こうとする、「鉄の意思」の持ち主だった。彼のピアノにはそんな意思の強さがあらわれていると思う。かといって「鋼鉄のタッチ」と評するのは言葉足らずである。外的な場の空間も、内的な心の空間も、十全に満たす。音楽の力のみで完全に満たす。それがギレリスのピアノなのである。
(阿部十三)


【関連サイト】
EMIL GILELS(CD)