2015年1月アーカイブ

  • 視点の正確さ 新しい一つの人生、すなわち、結婚後の生活を描く小津監督の視点は、正確さを志向している。そこには結婚や家族を美化する描写はない。むしろ、分かり合えない者たちが同居している雰囲気すら漂っている。それがいろいろなことを経て、時間をかけながら、「本当の夫婦」ないし「本当の家族」になっていく。『お茶漬の味』(1952年)や『早春』などは、そのプロセスを強...

    [続きを読む](2015.01.25)
  • 人のいとなみを見つめる 昔、小津安二郎の映画を観たときは、まず台詞の独特のテンポ、ロー・ポジションのカメラ、空間と人物の統制された構図、衣装や調度品のお洒落さに目がいったものである。ほかの監督の映画と比べて変わっているところに関心が向いたのだ。当時は人物の描き方やストーリーに共感することはほとんどなく、『麦秋』(1951年)も『東京物語』(1953年)もよく...

    [続きを読む](2015.01.21)
  • OMD『安息の館』1981年作品 英国リヴァプール出身のアーティストと言うと、今も昔もギターバンドのイメージが圧倒的に強い。ポストパンク期も然りで、エレクトロニック志向のバンドを続々輩出した他の英国北部の都市と違って、エコー&ザ・バニーメンやティアドロップ・エクスプローズが鳴らすギターロックが真っ先に思い出されるが、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・...

    [続きを読む](2015.01.15)
  • 楽想は深淵の傍に シューベルトの音楽を聴いていると、必ずと言っていいほど楽想というものに考えが及ぶ。彼はひとつの作品の中にさまざまな楽想を織り込み、それらを有機的につなげることで、えもいわれぬ美の世界と独創的な構成を獲得した。その作品では、次から次へと美しい楽想があらわれ、こともなげに連鎖する。たとえそれが理論上異質な要素であっても、同じ空気の中で結合し、包...

    [続きを読む](2015.01.09)
  •  アレクサンドル・コジェーヴの『法の現象学』の第三章に、「法的な快感」という言葉が出てくる。例えば頑強な人間が弱々しい病人を襲うのを見たとき、人は病人を守ろうとする。スポーツの試合で選手同士の争いが起きたとき、大勢の人が自らすすんで無償で仲裁者になろうとする。そこで得られる快感を「法的な快感」と言っているのである。「......この快感は真に『没利害的(無私...

    [続きを読む](2015.01.03)