音楽 CLASSIC

ハンス・ロスバウト 〜音楽の百科全書〜

2018.05.03
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 ハンス・ロスバウトには現代音楽のマイスターというイメージがある。何しろ20世紀の重要作品であるシェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』、ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」、クセナキスの「メタスタシス」の世界初演を務めた人なのである。しかし、そのレパートリーは広い。端的に言えば、ラモーからシュトックハウゼンまで手中に収めているのだ。大半はヨーロッパの作品だが、音楽史的にも、作曲家の傾向的にも、おそろしく広範囲である。百科全書的な音楽人と呼ぶに値する。

 多くの指揮者が歳を重ねるにつれて古典派・ロマン派に偏っていくのとは異なり、ロスバウトは1962年に67歳で亡くなるまで、「最新作」を指揮し続けた。亡くなる前年に録音されたハウベンシュトック=ラマティの「クレデンシャルス、あるいはシンク、シンク・ラッキー」やケッティングの交響曲第1番などを聴いても、その尖鋭性が健在だったことが分かる。解釈の確かさとセンスの良さは、1951年に録音されたメシアンのトゥーランガリラ交響曲でも光っている。ここまで切り込みが鋭く、力強い響きで魅了する演奏は、現在でもなかなか聴くことができない。

 作品の細部も全体も、この人の指揮で聴くと非常につかみやすく、小難しいイメージのある現代音楽が比較的すんなりと聴ける。その解釈には甘さがなく、アンサンブルの響きも細かく配慮されていて、純器楽的な美しさを発現させる。若き日の(辛口で過激だった頃の)ブーレーズは、その指揮法をよく観察していたという。ロスバウトの影響を受けた一人と言っていいだろう。

 ハンス・ロスバウトは1895年7月22日にオーストリアのグラーツで生まれ、フランクフルトのホーホ音楽院でアルフレート・ヘーン(ピアノ)、ベルンハルト・ゼクレス(作曲)に師事した。1921年にマインツ市立音楽学校の校長に任命され、1928年にはフランクフルト放送交響楽団の初代音楽監督に就任。その後、ミュンスター、ストラスブール、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督を歴任し、1948年からバーデン-バーデンの南西ドイツ放送管弦楽団の首席指揮者としてコンサート、録音を積極的に行った。それだけでなく、各地のオーケストラへの客演を多くこなしたり、1948年から始まったエクサン・プロヴァンス音楽祭でモーツァルトのオペラを振ったり、1957年にチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の首席指揮者の座に就いたりと、活動の場を広げていた。亡くなったのは、1962年12月29日である。

 通好みの指揮者に見られがちなロスバウトだが、録音は非常に多く、ラモーの『プラテー』、モーツァルトの『後宮からの逃走』『コシ・ファン・トゥッテ』『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、J.シュトラウスII世の『こうもり』、シェーンベルクの『モーゼとアロン』などの歌劇、楽劇の録音(ライヴ録音も含む)が残っている。いずれも純音楽的と言いたくなるようなアプローチで、全体的に声楽と管弦楽をそれぞれ「音」として純粋に響かせようとしている印象がある。譜面へのメスの入れ方が鋭くて深いので、ほかの指揮者では聴くことができないような音も聴こえてくる。特にラモーの『プラテー』は、古さも冗長さも全く感じさせず、音楽が終始生き生きとしていて、各パートの響きがとてつもなく心地よい。

 オペラ以外の録音となると、それこそ名演奏だらけで選びきれない。私が感銘を受けたのは、ハイドンの交響曲集、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ソリストはジネット・ヌヴー)、リストの「人、山の上で聞きしこと」、ブルックナーの交響曲第7番、マーラーの交響曲第6番と第9番、シベリウスの「タピオラ」「フィンランディア」、R.シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」(ソリストはゲザ・アンダ)、メシアンのトゥーランガリラ交響曲、クセナキスの「メタスタシス」、ハウベンシュトック=ラマティの「クレデンシャルス」、ケッティングの交響曲第1番......。かなり厳選しても、これだけの名盤がある。

 私がこの指揮者を知ったのは、モーツァルトのピアノ協奏曲第9番(ソリストはワルター・ギーゼキング)の伴奏指揮者としてだったが、興味を抱いたのは、ブルックナーの交響曲第7番を聴いてからである。これは1959年の録音。この作品のアキレス腱と言われることもある終楽章が、ここまで美しく、そして無駄を一切感じさせずに鳴り響いた例を、私は知らない。1957年に録音された『ツァラトゥストラはかく語りき』の導入部も、遠方からこちらに向かって吹いてくる突風のような勢いがあり、決して誇張ではなく、思わずスピーカーの前で声を上げそうになったことがある。ケッティングの交響曲第1番で炸裂する凄まじい気迫、緊張感も忘れがたい。

 その演奏は情感がないと言われることもあるが、それは指揮者本位の感情移入が少ないという意味であって、一音の扱いに傾けられる神経の鋭さ、細やかさは強靭な集中力を要するものである。冷たく、あるいは、乾いた質感で響くことがあっても、実は、その音を出すために計り知れないほどの配慮がなされているのだ。楽譜を丁寧に読み込み、各パートの音色やフレージングに十分神経を行き届かせた上でなされるその演奏が、今日現在も手垢がついていない新鮮な音楽として(音質は多少古いが)響くのだから、これは類稀なる知性と情熱の産物と言うほかない。

 ロスバウトにはピアニストとしての一面もあり、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタでは、第二ピアノを受け持ち、音楽の流れを損なうことなく雄弁に弾きこなしている。エクサン・プロヴァンス音楽祭で、エリザベート・シュヴァルツコップやテレサ・シュティッヒ=ランダルのために伴奏を務めたこともある(前者は1954年、後者は1956年)。取り上げた作曲家はバッハ、ペルゴレージからヴォルフ、ドビュッシーにまで及ぶ。無論、モーツァルト、シューベルト、シューマンの歌曲もある。余分な響きを抑制したロスバウトのピアノは、美声に融合するというよりも、美声を引き立てることに徹しているようだ。

 1954年にフランシス・プーランクは「音楽ファンは、最も偉大な指揮者はトスカニーニだと信じている。しかし音楽家は、それはハンス・ロスバウトだということを知っている」と語った。プーランク以降の世代にとっては、確かにそうかもしれない。ロスバウトは権威の人というよりは、現場の人であり、最後まで若き才能の共感者であり続けた。現代音楽との向き合い方をみても、商業主義に支配された21世紀の現在では、こうはいかないだろうと思われるほど録音に積極的であり、そのスタンスは啓蒙的かつアグレッシヴで、しかも柔軟だった。

 ロスバウトの指揮で聴けば、何かしらその作品に対する発見がある。「ハンス・ロスバウト指揮」とクレジットされていたら、どんな作品でも、一度聴いてみることをおすすめする。
(阿部十三)


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