音楽 CLASSIC

イレーネ・アイジンガー 〜不世出のスーブレット〜

2018.11.10
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 モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』はデスピーナ役の演じ方次第で印象が大きく変わる。デスピーナが狡知に長けた年増女やルサンチマンの化身のように感じられると、この劇は重苦しくなるが、無邪気でチャーミングな悪戯娘のようだと、オペラ・ブッファとしての体裁を保つことができる。
 1930年代に活躍したソプラノ歌手、イレーネ・アイジンガーが演じたデスピーナは後者の典型だ。1935年にグラインドボーン音楽祭のメンバーを起用して録音された『コジ・ファン・トゥッテ』は、この素晴らしいデスピーナと、フリッツ・ブッシュの品位のある指揮によって、掛け替えのない理想的な演奏であり続けている、と言っても過言ではない。

 アイジンガーの高音は澄んでいてけがれがなく、コロラトゥーラの装飾も巧みにこなすが、それだけでなく役の性格を表現する技量も持ち合わせている。短いフレーズでも、役の豊かな表情や感情を伝えるのである。歌声のみで十分な演技をする歌手とでも言えばいいだろうか。レチタティーボの表現に見られる遊び心やユーモアも鼻につかない。それは知性と勘の良さに裏付けられたもので、劇を活気づかせることはあっても、決して煩わしいものにはならないのである。その真価は、レコード全盛時代ならもっと華々しくアピールされていたかもしれない。
 当たり役はデスピーナ、『フィガロの結婚』のスザンナ、『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ、『魔笛』のパパゲーナ、『魔弾の射手』のブロンデなどである。『イドメネオ』のイーリアも歌っているので一概には言えないが、主にスーブレット役を得意としていた。また、喜劇のセンスがある彼女は『こうもり』をはじめとするオペレッタでも喝采を浴び、容姿に恵まれていたこともあって、一時はオペレッタ映画に出演していた。

 アイジンガーは1903年12月4日に生まれた。生地は旧ドイツ領コーズル(現ポーランド)である。歌手を志望してウィーンへ行き、パウラ・マルク=ノイサーに師事し、1926年にデビューした。ベルリン市立歌劇場、ベルリン・クロール・オペラ(オットー・クレンペラーが総監督をしていた時代である)、ウィーン国立歌劇場と活躍の場を広げ、1932年にはベルリン国立歌劇場と契約。ザルツブルク音楽祭にも出演し、モーツァルト・オペラの可憐なスーブレット役で人気を博したが、ユダヤ系だったため、1933年にドイツを去った。
 その後、プラハ、ブリュッセル、アムステルダムで歌っていたアイジンガーは、当時イギリスにいた大指揮者フリッツ・ブッシュに招かれて第一回グラインドボーン音楽祭(1934年5月)に出演し、『コジ・ファン・トゥッテ』のデスピーナ役で大成功を収めた。その後、1936年には『ヘンゼルとグレーテル』のグレーテル役でコヴェント・ガーデンに初登場し、イギリスの歌手としてファンに愛されたが、40代のうちにオペラから引退。最後のオペラ出演は1949年にエディンバラ国際フェスティバルで上演された『コジ・ファン・トゥッテ』だと言われている。無論、彼女が歌ったのはデスピーナだ。引退後は後進を育成し、1994年4月8日、イギリスで亡くなった。90歳。

 代表的な録音は『コジ・ファン・トゥッテ』だが、有名オペラ、オペレッタのアリアの録音も遺されている。これまでは音源を探すのにも一苦労で、彼女の歌が数曲収録されているオムニバスをせっせと集めていたが、『HISTORIC OPERA STARS from Germany Vol.2』にまとめられたことで、そのストレスはなくなった。
 このアルバムにはアデーレ、スザンナ、ツェルリーナ、エンヒェン、ラウレッタのアリアのほか、「郊外のヴァハウでは」「ウィーンは夜が一番美しい」「アンネン・ポルカ」「唯一度だけ」が収録されている。全てドイツ語歌唱である。

 「唯一度だけ」は戦前日本でもヒットしたオペレッタ映画『会議は踊る』(1931年)で歌われた名曲。映画ではリリアン・ハーヴェイが歌い、彼女の代表曲になったが、アイジンガーの歌もすこぶる可憐で色褪せない魅力がある。「ウィーンは夜が一番美しい」や「恋人よ、さあこの薬で」のしっとりとした美しさ、粋で優しい表現も彼女の持ち味である。
 渡英後に録音された「水彩画」も名唱(これは『HISTORIC OPERA STARS〜』に収録されていない)。ヨーゼフ・シュトラウスの旋律に英語の歌詞をのせたもので、軽やかさの中に風格を感じさせる美声を聴かせている。当時トーマス・ビーチャムの指揮により上演された『ヘンゼルとグレーテル』の音源は、残念ながら遺されていないようだ。

 映画にも出ているので、歌う姿を見ることが出来る。ロベルト・シュトルツの音楽を使った『Die lustigen Weiber von Wien(ウィーンの陽気な女房たち)』は1931年の作品。脇役ながら、「Das Lied von Vater」を前半と後半で歌い、比較的目立っている。モーツァルトやヨーゼフ2世を登場させた『Die Försterchristl』(1931年)は記念すべき彼女の主演作なのだが、私は観たことがない。そもそもソフトが存在するのかどうかも分からない。
 歌の音源も現在入手できるものが全てではない。まだ発掘されていないものもあるだろう。せめてクロール・オペラ時代の音源、1939年に『イドメネオ』のイーリアを歌った時の音源を聴くことが出来たら、というのはファンとしての切実な願いである。

 鮮やかな美声に恵まれ、コケットリーとチャームを備え、確かな技術と天性のセンスを以て、粋な歌い回しをする歌手には今はなかなかお目にかかることはできないが、それだけに「イレーネ・アイジンガー」を知る者の中でその存在価値は増すばかりだ。おそらくモーツァルトが聴いたら、さぞ気に入っていたであろう不世出のスーブレットである。


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