音楽 CLASSIC

ヤッシャ・ハイフェッツ 〜完璧と高潔〜

2019.01.04
完璧な演奏

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 1917年10月27日、ロシアからアメリカへやって来た16歳のヤッシャ・ハイフェッツは、カーネギーホールで初リサイタルを行い、驚異的な成功を収めた。その信じがたいほど完璧な演奏は、当時客席にいた誰もがかつて耳にしたことがないもの、同業者が脅威を感じるレベルのものだったという。

 以来、ハイフェッツの名は「完璧」と同義になり、やがて「ヴァイオリニストの王」と呼ばれるまでになり、多くのヴァイオリニストが彼の高度な技巧と比較される憂き目に遭った。しかし、ハイフェッツにも不利益がなかったわけではない。「完璧すぎて、冷たく、無表情で、人間味に乏しい音楽」と言われ続けることになったのだから。ただでさえテクニックが圧倒的なのに、ステージ上で表情ひとつ変えず、派手な身振りをすることもなく演奏していたので、そういうイメージが定着したのだ。

 では、実際はどうだったのか。『アート・オブ・ヴァイオリン』という映像作品でイヴリー・ギトリスが語っているように、目をつぶってその音に耳を傾ければ、冷たいどころではないのである。イツァーク・パールマンは「竜巻のようで、舞台の上で莫大なエネルギーが旋回していた」と言っているが、これは虚心坦懐にその演奏に接した人の率直な感想だ。

その生涯

 ヤッシャ・ハイフェッツは1901年2月2日、ロシア領ヴィリナで生まれた。父からヴァイオリンの手ほどきを受けたのは3歳の時のこと。その後イリヤ・マルキンに師事し、間もなくその師匠レオポルト・アウアーの教えを受け、サンクト・ペテルブルクに移住した。当時ユダヤ人がサンクト・ペテルブルクに住むことは禁じられていたため、アウアーは特別許可を得るために奔走したという。

 1917年、ロシア二月革命で雲行きが怪しくなると、ハイフェッツ一家は十月革命が起こる前にロシアを脱出し、アメリカに移住した。以降、アメリカを拠点とし、世界各地で演奏旅行を続け、録音も積極的に行った。ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタイン、チェリストのエマニュエル・フォイアマン(フォイアマンの死後はグレゴール・ピアティゴルスキー)とトリオを組んだり、映画『彼らの音楽を』(1938年)や『カーネギー・ホール』(1947年)に出演したこともある。初期の録音で有名なのはサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」(1919年録音)。非の打ちどころのない名演である。

 1953年にイスラエルでリサイタルを開く際、ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタを演奏すると発表したことは、音楽と政治に対するハイフェッツの姿勢を示すものとして特記すべきだろう。彼はナチスの作曲家の作品を取り上げるなと抗議を受けたが、音楽と政治は別だと考え、自分のレパートリーは自分で決めると宣言した。その結果、コンサート終了後、何者かに鉄棒で殴られた。しかし、彼はこの作品を弾き続け、録音し、1972年の引退リサイタルでも取り上げた。

 ハイフェッツは私生活に干渉されることを好まず、自伝も書かなかったので、結婚・離婚以外のことはほとんどヴェールに包まれている。ただ、プライベートを映した珍しいフィルムもいくつか存在していて、それらはドキュメンタリー『神のヴァイオリニスト ヤッシャ・ハイフェッツ』(2011年)にまとめられている。この映像でも確認できるように、ハイフェッツは厳しい教育者としての顔も持っていた。愛弟子はピエール・アモイヤル。ユージン・フォドア、亀井由紀子らにも教えていた。ロサンゼルスで亡くなったのは、1987年12月10日のことである。

ハイフェッツ病

 ヨーロッパ・デビューで華々しい成功を収めた時、ハイフェッツはまだ11歳だった。コンサート後、内輪の晩餐会でメンデルスゾーンの協奏曲を弾くことになると、大先輩のフリッツ・クライスラーが「私がピアノ伴奏を務めよう」と申し出た。演奏が終わると、クライスラーはその場にいたヴァイオリニストたちにこう言ったという。「目下の状況では、各々がヴァイオリンを叩き壊しても、さしたる問題はなさそうですな」ーーハイフェッツの演奏は同業者たちの気力を失わせ、それは「ハイフェッツ病」とまで呼ばれたが、そのルーツはクライスラーの発言にあるのかもしれない(無論、クライスラーはその後も偉大なヴァイオリニストであり続けたし、ハイフェッツはクライスラーのことを尊敬していた)。

 「ハイフェッツ病」とはまた異なるが、彼と同じように「ヴァイオリニストの王」と呼ばれていた東側のダヴィッド・オイストラフも、先輩の演奏に敬意を払っていた。ピエール・アモイヤルから「僕はあなたにも習いたいが、ハイフェッツにも習いに来いと言われたんです」と相談された時、「僕は58歳だが、もしハイフェッツに習えるんだったら今からでも行くね」と答えたという逸話は、ハイフェッツの偉大さとオイストラフの人柄を伝えていて微笑ましい。

 凄さを伝えるエピソードはほかにもある。兄弟子にあたるミッシャ・エルマンがハイフェッツのコンサートを聴き、「ここは暑いなあ」と言った時、ピアニストのレオポルド・ゴドフスキーが「ピアニストにはそうでもありませんね」と応じた、という小噺もそのうちの一つだ。1920年には、ジョージ・バーナード・ショーが若きハイフェッツに次のような手紙を送った。「あなたのように完璧な演奏をしたら、神様が嫉妬して怒ります。あなたは長生きできないでしょう。なので、せめて毎晩寝る前に、何かの曲をわざと下手に弾いてください」ーーこの忠告を受け入れたかどうかは分からないが、彼は86歳まで生きた。

録音

 録音活動は1910年代初頭から始まっているが、1950年代から1960年代前半にかけて録音されたものが(音質が良好なこともあり)高い人気を得ている。フリッツ・ライナー、シャルル・ミュンシュと組んだ4大ヴァイオリン協奏曲が録られたのもこの時期だ。J.S.バッハ、モーツァルト、ヴュータン、フランク、ラロ、サン=サーンス、ヴィエニャフスキ、ブルッフ、サラサーテ、フォーレ、グラズノフ、シベリウス、プロコフィエフ、コルンゴルト、ウォルトン、ローザなどの作品も録音し、その多くは今日でも決定盤とされている。

 膨大な数の録音を聴けば聴くほど、ポーカーフェイスでバリバリ弾くハイフェッツの固定イメージに、さまざまなバリエーションが加わるにちがいない。例えばモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番(1934年録音)の第2楽章でゆっくりと旋律を慈しむように弾いているのも、ハイフェッツなのである。得意としていた室内楽曲では、旋律に繊細な色と陰翳を施し、魅惑の響きを聴かせている。フォーレのヴァイオリン・ソナタ(1955年録音)は、その最上の例として挙げることができる。また、彼が最も愛していたバッハを弾く時のアプローチなどは、愚直なまでに誠実である。これは無伴奏パルティータ第2番(1935年〜1937年録音)を聴けば、すぐに感じとれる。

 ハイフェッツは7歳の時(1908年)にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いて注目を集めて以来、この作品を十八番としていた。これも1949年と1959年のセッション録音で、切れ味の鋭い演奏を聴くことができる。が、1944年にアルトゥーロ・トスカニーニの指揮で演奏したライヴ音源の方が、ある意味、ハイフェッツらしさが出ていると言えるかもしれない。ここでの彼はゾッとするほどの気迫と集中力を感じさせ、人間業とは思えないほどのスピードで演奏している。テンションの高さが混沌とした荒々しさへと向かわず、作品の輪郭をぐいぐい引き締めるストイックな方向に向かい、ヴァイオリンの音が凄味を帯びて燃え盛っているのだ。

作曲と編曲

 作曲の才能にも恵まれていたハイフェッツは、数多くの作品を編曲し、自らリサイタルで弾いていた。最も有名なのは、技巧的なショー・ピースとしておなじみの「ホラ・スタッカート」。ほかに、J.S.バッハのイギリス組曲第3番、シューベルトの即興曲第3番ト長調、プロコフィエフの「三つのオレンジへの恋」、ハチャトゥリアンの「剣の舞」、ガーシュウィンの「ポーギーとベス」なども編曲しているが、とくにシューベルトの即興曲第3番はハイフェッツのロマンティストぶりを伝える編曲として傾聴に値する。また、ジム・ホイル名義で歌謡曲の作曲もしていた。ビング・クロスビーが歌った「When You Make Love To Me」も彼の曲である。

 協奏曲を演奏する際、作曲家の楽譜に手を加えて、書き換えていたことについては、否定的な意見を持つ人も少なくない。しかも彼には人並み以上に作曲の才能があったため、その変更はいささか大胆に行われ、戦後主流となった原典主義とは異なる立場をとっていた。が、ハイフェッツがデビューした頃、演奏家が自身のヴィルトゥオジティを示すために楽譜をいじる行為は珍しいものではなかった。また、彼の場合、作品を多くの聴衆に受け入れられやすくする狙いもあっただろう。誰かがハイフェッツの演奏を聴いたことでその作品を好きになり、楽譜を調べ、「元の楽譜と違うではないか」と批判したとしても、その作品を好きにさせたのが彼であるという事実が消えることはない。

格調の高さ、密度の濃さ

 「ツィゴイネルワイゼン」「序奏とロンド・カプリチオーソ」「スペイン交響曲」といった作品を、これ以上望めないほどのヴィルトゥオジティで音楽的に表現し尽くしたことも、ハイフェッツの功績と言っていい。「序奏とロンド・カプリチオーソ」は、正規の録音もあるのだが、映画『彼らに音楽を』の演奏シーンが何度観ても聴いても素晴らしい。熱演であるばかりでなく、颯爽としていて、しかも格調高い。無表情で、派手な動きがないのは、ハイフェッツがそういうパフォーマンスを敬遠しているからにすぎない。聴覚の面でも、視覚の面でも、崩れることを嫌う高潔なヴァイオリニストなのである。

 ハイフェッツのボーイングには余分な力がなく、フレージングはしなやかだが、音の密度は濃く、糸をピンと張ったような緊張感がある。その演奏は、時に聴き手が息苦しくなるほどの緊密さに達するが、最後には、圧縮された情熱と神々しいまでの技巧によってその緊密な殻が突き破られ、エクスタシーがもたらされる。ハイフェッツは聴衆が何を求めているかということを肌で分かっていたのだろう。しばしば批判の的となるポルタメントの多用も、弱点とは思えない。それはいわば贅肉のないポルタメントであって、甘ったるさを狙うためというより、一見ニュータイプだが前時代的な気質を持つ彼が一種のマナーとして固持していたもののように感じられる。

 私は今、1957年に録音されたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(フリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団)をかけている。これを聴いている時ほど、鮮烈な音楽で身も心も満たされるような思いをすることは稀である。ここには厳格で鋭い切れ味があり、おかしがたい品格がある。竜巻のような情熱があり、作品の核に即時に達するような無類の直截さがある。演奏家の力量以外、タネも仕掛けもない。最も分かりやすく、最も多くの聴衆に伝わるであろう驚異の演奏のひとつだ。
(阿部十三)

[参考文献]
A・W・ベレッド著『世紀のバイオリニスト ヤッシャ・ハイフェッツ』(旺史社 1989年12月)

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