音楽 CLASSIC

エルネスト・アンセルメ伝

2023.04.05
バレエ音楽の神様

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 エルネスト・アンセルメはスイス出身の名指揮者で、ストラヴィンスキーの『兵士の物語』、『結婚』、『プルチネルラ』、『狐』、ファリャの『三角帽子』(舞台版)、サティの『パラード』などの世界初演を務めたことで知られる。『春の祭典』の再演を大成功へと導いた立役者の一人でもある。広範なレパートリーの中では、特にバレエ音楽の指揮に定評があり、「バレエ音楽の神様」と呼ばれていた。
 レコーディングにも積極的で、名門レーベルのデッカの専属となり、当時としては画期的な高音質レコードを大量に生み出した。デッカの名物プロデューサー、ジョン・カルショウによると、数々の名録音が生まれたのは、技術者やヴィクトリア・ホール(音響が良いことで有名)の力だけでなく、音響に関する知識と鋭敏な聴覚を持つアンセルメの力によるところが大きかったという。

指揮者としての評価

 ただ、1969年にアンセルメが亡くなってから数十年間、日本では評論家受けが良くなかった。クラシック愛好家の中にも、アンセルメの音楽を「感情がない」「中身がない」とけなす人が少なからずいた。一時はレコードやCDも叩き売りの状態にあった。
 1968年に行われた来日公演が、レコードの演奏クオリティを遙かに下回る出来だったため、観客が失望し、「録音マジック」と揶揄されるようになったという説もあるが、これは信用に値しない。実際にコンサートを聴きに行った作曲家の菅野浩和は、「ドビュッシーはほんとうに感嘆を禁じ得ない、すばらしいものとなった」と回想しているし、Cascavelleレーベルなどから出ているライヴ音源も、大半は素晴らしい演奏である。

バレエ・リュス、スイス・ロマンド管の指揮者

 アンセルメは1883年11月11日、スイスのレマン湖東岸の町ヴヴェイに生まれた。音楽と数学を学び、ローザンヌ大学を卒業後、数学教師になるが、フランシスコ・デ・ラセルダ、アレクサンドル・デネレア、エルネスト・ブロッホ、アルトゥール・ニキシュ、フェリックス・ワインガルトナーの影響を受け、本格的に音楽の道へ。ドビュッシーとの交流も始まり、大いに刺激を受けた。1911年3月、ローザンヌ交響楽団を指揮してデビュー。数学教師を辞め、1912年にカジノ・クルサール・ド・モントルー管弦楽団の首席指揮者に就任した。ストラヴィンスキーと親しくなったのは、この頃である。1914年、同楽団は活動停止となるが、失業中の音楽家を集めてロマンド交響協会を結成。1918年にスイス・ロマンド管弦楽団を創設した。
 それと前後するが、1915年にはストラヴィンスキーの推薦により、セルゲイ・ディアギレフ主宰のバレエ・リュスの指揮者に就任。このポストを得たことで、スイスのローカル指揮者だったアンセルメの国際的なキャリアが始まった。1929年にはスイス・ロマンド管が財政危機に陥るが、自身の知名度を活かし、定期的にジュネーヴ放送の番組用に演奏することで収益を向上させ、1934年にジュネーヴ大劇場の公式オーケストラとして契約。危機を乗り切った。

無調音楽、12音技法に否定的

 戦後はデッカで活発に録音を行い、スイス・ロマンド管の名を世に知らしめた。録音技術の革新にも深く関わり、1954年に行われたステレオの試験録音では指揮を務めている(作品はリムスキー=コルサコフの交響曲第2番)。彼がそのプレイバックを聴いてOKを出したことにより、実用化試験録音の開始が決定したのである。
 録音やコンサートで取り上げた作品はバロックから現代音楽まで幅広い。しかし、無調音楽、12音技法、セリー主義には否定的な立場をとっていた。1961年に出版された『人間の意識における音楽の基礎』はその立場を明らかにした大著で、シェーンベルクを否定し、さらにセリー音楽を取り入れたストラヴィンスキーを批判した。ストラヴィンスキーとの関係は、当然のことながら悪化した。
 アンセルメといえば同時代の音楽の理解者のようなイメージがあるが、バルトーク以降の作曲家で受け入れたのは、限られた範囲にとどまった(具体名を挙げると、ベルク、マルタン、マルティヌー、オネゲル、ブリテン、ディティユーなど)。そんなアンセルメが愛していたのはドイツ音楽で、事あるごとにコンサートで取り上げていた。その思い入れは、デビュー時のプログラムにベートーヴェンの交響曲第4番を選んでいることからも感じられる。晩年はバッハのカンタータを好んで指揮していた。

スイス・ロマンド管を退任

 スイスでは偉人のような存在で、多くの人に慕われていた。シャルル・デュトワもその中の一人で、苦学生時代にスイス・ロマンド管のリハーサルに出入りすることを許可され、わからないことがあれば質問することができたという。もう少し前の世代では、ペーター・マークもアンセルメの助手を務め、教えを受けていたことがある。
 1967年、スイス・ロマンド管の音楽監督を退任し、後任にパウル・クレツキを指名した。1968年には同楽団を率いて、クレツキと共に来日。アンセルメは過去(1964年5月〜6月)にも一度来日してN響を指揮しているが、大きな話題を呼んだのは1968年の公演である。当時アンセルメのレコードは日本でも人気があり、会場の日本武道館が埋まったという。
 1968年11月、ニュー・フィルハーモニア管と共に、ストラヴィンスキーの『火の鳥』(1910年版)を録音。結果的に、これが最後の録音となった。同年12月18日、コンサートでバッハ、ドビュッシー、バルトーク、オネゲルの作品を指揮。その2ヶ月後の1969年2月20日、心臓発作により85歳で亡くなった。


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