音楽 CLASSIC

アーリーン・オジェー 〜美声の象徴〜

2015.10.23
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 アーリーン・オジェーの歌声は心を洗う光、雑念を消す光である。まさしく真の美声だ。普通の歌手なら中年にさしかかるあたりで声が重くなったり固くなったりして、高音の出し方にも力みが感じられるようになる。しかし、オジェーは表現の幅を広げることはあっても、気品と透明感のある美声を失うことはなかった。彼女はそのキャリアの中で、厳密な意味で「衰えない」という奇跡を積み重ねてきたのだ。

 オジェーは1993年6月に53歳の若さで亡くなった。さらに同じ年、タチアナ・トロヤノスとルチア・ポップもほぼ同じ年齢で世を去っている。21世紀に入ってからは毎年のように20世紀に活躍したクラシック音楽のアイコンとも言える人たちが亡くなっているが、私はいまだに「1993」という数字を見ると「喪失」という言葉が頭に浮かぶ。それくらい当時のショックは大きかった。オジェーには大量の録音があり、いつでも自分の好きな曲でその美声をよみがえらせることができるというのが、せめてもの慰めである。

 1939年9月13日生まれで、アメリカのロサンゼルス出身。教員として働いていたが、ラルフ・エロールに声楽を学び、28歳のとき、声楽コンクールで優勝した。その後ヨーゼフ・クリップスに認められ、ウィーン国立歌劇場で『魔笛』の夜の女王を歌って成功。それから約四半世紀にわたり第一線で活躍し、バロックと古典派の作品を中心にすぐれた歌唱を聴かせた。J.S.バッハの四大宗教曲とカンタータ集、ヘンデルの「9つのドイツ・アリア」、ハイドンの歌曲集、モーツァルトの『ルーチョ・シッラ』(ジューニア)と『後宮からの逃走』(コンスタンツェ)は、彼女の実力、魅力を余すところなく示す代表作と言ってよいだろう。とりわけ1973年に録音されたカール・ベーム指揮の『後宮』は、みずみずしさと爽快感が満点で、超が付く名演奏として記憶される。1978年にザルツブルクで行われたリサイタルの音源と1984年に録音された『J.S.バッハ/ヘンデル:アリア集』も名唱の宝庫で、その美しさにため息が出る。後者はバロックの声楽曲入門としてもうってつけだ。

 むろん、彼女のレパートリーにはロマン派以降の作品も入っており、シューベルトの歌曲集、シューマンの『女の愛と生涯』、R.シュトラウスの『四つの最後の歌』は名盤として知られている。シューベルトの歌曲集はワルター・オルベルツ、グレアム・ジョンソン、ランバート・オーキスなどによる伴奏で、録音が何種類かある。シューマンの『女の愛と生涯』はオルベルツの伴奏、シュトラウスはアンドレ・プレヴィン指揮によるウィーン・フィルの伴奏だ。

 グノー、コープランド、ブリテンなどの愛の曲をコンパイルした『Love Songs』、シューマンやシェーンベルクを取り上げた1987年のリサイタル音源でも、濁りのない清澄さと包み込むような優しさを感じさせる至高の歌声を堪能できる。伴奏を務めたのはダルトン・ボールドウィン。ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮、イギリス室内管弦楽団によるカントルーブ編曲の『オーヴェルニュの歌』と、サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市響の演奏によるマーラーの「復活」も絶品。美しさと誠実さの面で模範的な歌唱だが、誰も真似できない模範である。

 派手な色彩感やドラマティックな力強さで圧倒するソプラノではなく、どこまでもエレガントで清潔感のある歌声。誠実な彼女の声は、美に対して常に献身的であり、自己流の癖や解釈で作品を味付けすることはない。その超俗性はたしかに宗教曲の雰囲気に合っている。と同時に、彼女の声はR.シュトラウスのように唯美的な傾向を持つ作曲家とも相性が良い。それは『四つの最後の歌』でも確認することができるが、『ばらの騎士』のゾフィーも素晴らしい。幸いグンドゥラ・ヤノヴィッツ、タチアナ・トロヤノスと共演したライヴ音源の一部が遺っている。第三幕の三重唱、二重唱は最も陶酔的な声のアンサンブルの一つで、聴いていると何もする気が起こらなくなる。そこにいるのは至福の天使だ。指揮はクルト・アイヒホルン。以前MYTOから出ていたカルロス・クライバー指揮の全曲ライヴ音源に、ボーナストラックとして収録されていた。

 美声の象徴とも言うべき歌手だが、彼女はその特性に寄りかかることなく、楽譜を読み込み、技術を磨き、表現の可能性を広げようとした。1990年に録音されたヘンデルの『オルランド』はその成果の一つで、ピリオド奏法に合わせたフレージングでアンジェリカのアリアに生命を吹き込んでいる。美声は時に耳を感覚的に麻痺させる。しかし、彼女の歌は一瞬の響きもおろそかにせず、過剰にならないレベルで繊細な陰影をつけているため、美の均質性に麻痺させられることはない。その清廉な音楽性と高度な技術は、1988年録音のコープランドの「パストラーレ」や1991年録音のシューベルトの「楽に寄す」を注意して聴くだけでも分かる。ここではピアニッシモの美しさとレガートのなめらかさが尋常でない域に達している。それでいて鼻につく作為を全く感じさせないのだ。

 リビー・ラーセンの『ポルトガル語からのソネット』は、オジェーのために書かれた歌曲集。オジェーは1988年にジョエル・レヴゼンを通じてラーセンを知り、『女の愛と生涯』のような連作歌曲を作ってほしいと依頼し、自分が心から愛するエリザベス・バレット・ブラウニングの詩を題材にすることを提案したという。初演は1989年にアスペン音楽祭で行われた。『アーリーン・オジェーの芸術』に収められているのは1991年11月の再演時の録音。オジェーはこの後間もなく病を押してモーツァルトの『レクイエム』を歌い、最後のレコーディング(ヴォルフ歌曲集)に臨む。そして、1992年2月に脳腫瘍で入院し、闘病生活を送ることになるのだが、『ポルトガル語からのソネット』のオジェーはそんな先のことを微塵も思わせない佇まいで、妖しい美の世界を現出させている。

 宗教音楽のみならず、オペラや20世紀の音楽に対してオジェーが果たした貢献の大きさは計り知れない。それとは知らずに彼女の澄んだ歌声を通じて、普段あまり聴く機会のない音楽作品から美しさや親しみやすさを感じ取った人はたくさんいるはずだ。私たちはその美声の恩恵に浴している。少なくとも私は、彼女がいなければバッハのカンタータやヘンデルのオペラの魅力を知ることなく過ごしていただろう。


【関連サイト】
Arleen Augér(CD)