音楽 CLASSIC

ヴィルヘルム・バックハウス 〜霊感と確信に満ちた演奏〜 [続き]

2017.03.13
ベートーヴェン弾きとして

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 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、モノラルとステレオの2種類ある。前者は1950年から1954年、後者は1959年から1969年にかけて録音された(「ハンマークラヴィーア・ソナタ」は除く)。演奏に関しては、モノラル盤の方が構築的である。ピアニッシモの美しい音色や聴き手に違和感を与えないアゴーギクの妙技も、神経質すぎない程度に磨かれている。ただし、バックハウスが弾くベートーヴェンを何でもかんでも良しとする賛辞には同調できない。中には、低調なものもあるし、明らかにテンポの揺れ方が不安定なものもある。「たくまざる」と評する以前に、ぶっきらぼうに鳴らしているように感じられるものもある。

 ライヴ音源として遺っている作品については、そちらで聴いた方がバックハウスの凄さをより味わえると思う。その代表盤が、カーネギーホールでのリサイタル(1954年3月30日録音)、同ホールでのリサイタル(1956年4月11日録音)、ブザンソン音楽祭でのリサイタル(1959年9月16日録音)、ボンのベートーヴェンハレでのリサイタル(1959年9月24日録音)、ラスト・リサイタル(1969年6月26日、28日録音)だ。この手の音源は今後も発掘され続けるだろう。

 1956年と1959年の「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の第3楽章は、信じ難いほど自然な造形感と詩的な息遣いにおいて、余人の追随を許さない。私はエミール・ギレリスの晩年の演奏に漂う、哀しくなるほど澄んだ空気感にもひかれるが、真正面から向き合うと、時折その孤絶した美しさが痛みになり、胸を締めつける。バックハウスの方は神秘の門戸を大きく開いている感じで、比較的足を踏み入れやすい。

 協奏曲では第4番を聴いておきたい。1967年の映像版は、名盤の多いこの作品の中でも頂点にあると言いたくなるほどの出来だ。音楽が実にみずみずしく、楽譜に織り込まれた音の綾がするすると解きほぐされていくのを目の当たりにするかのような感覚に陥る。ひとことで言えば、ベートーヴェンを知り尽くした人間の演奏である。

 1959年のセッション録音による第5番「皇帝」は、ほかのピアニストの個性的な演奏、重量級の演奏を聴いた後だとあっさりした印象があるけど、注意深く耳を傾けると、フレージングの説得力、音色の高潔さにハッとさせられる。もっと豪快さや鮮烈さがほしいときに聴きたいのは、1961年4月27日にルガーノで演奏されたライヴ録音。カール・シューリヒトのサポートを得て興に乗ったバックハウスの奮迅ぶりが凄まじい。激しいだけでなく、旋律を即興的に冴えわたらせる若々しい閃きと、それでも揺らぐことのない巨大な音楽の流れが感じられる点も、高く評価すべきだろう。

バッハ、シューベルトブラームスなど

 得意としていたブラームスのピアノ協奏曲第2番に関しては、1952年盤が覇気と確信に満ち、曖昧さがない。私は昔からこればかり聴いている。1967年盤の方が音質が良く、また、円熟期の演奏として評価されているが、前の録音を聴いた後だと、私にはまろやかすぎる。

 バックハウスは普段バッハを愛奏していたという。その割に録音された作品は少ない。イギリス組曲第6番は不思議な魅力を持つ演奏で、古風で技巧的なフレージングには気取りがなく、品がある。切なく響くトリルも美しい。同じくセッション録音が少ないシューベルトも良い。カーネギーホールやベートーヴェンハレで披露された即興曲では、飾り気もなく、衒気もなく、無駄に構えることなく作品の核に潜む美しさを引き出している。シューベルトへの深い共感を感じさせるピアノだ。そういえば最後のリサイタルで演奏された最後の曲も、シューベルトの即興曲だった。できればピアノ・ソナタ集を録音してほしかった。

 ハイドンのピアノ・ソナタ第34番(1957年録音)、モーツァルトのピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」(1955年録音)は屈指の名演。抑制のきいた表現だが、禁欲的というわけではなく、心の翳り、慈しむような優しさ、感性の柔らかさを感じさせるピアノだ。グリーグの協奏曲の録音も傾聴に値する。この作品の一部をバックハウスはまだ20代の頃に録音し、そこで華麗なテクニックを披露しているが、1933年にジョン・バルビローリ指揮の新交響楽団と全曲録音を完遂。これは大ピアニストのイメージに一石を投じる演奏である。何しろ(バルビの指揮も含め)気合が入っていて、驚くほどロマンティックなのだ。カデンツァでのヴィルトゥオーゾぶりも圧巻としか言いようがない。

最後に

 バックハウスにはドイツ音楽の守護神というイメージがあり、「古典派、ロマン派はかくあるべし」といった鉄則に従っているように見えるが、ライヴに生きるコンサート・ピアニストとして、その場に降りてくる霊感を重んじていた。演奏前に鍵盤を弾き、時には分散和音を奏でてから作品を弾き始める癖も、独特である。それは単なる指慣らしにとどまらず、己の手を音楽の予感で満たす行為でもあったろう。そこから何かに導かれるようにして作品世界に入ってゆくところには、一種の雰囲気がある。いくつかのライヴ録音や映像作品には、その部分もきちんと収録されているので、そういった側面もあわせてバックハウスの音楽性を堪能したいところだ。