音楽 CLASSIC

シャルル・ミュンシュ 〜在るべきところに在る心地よさ〜

2011.04.08
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 シャルル・ミュンシュが遺した録音に接していると、しばしばライヴを目の当たりにしているような気分になる。そこには生々しい臨場感がある。彼はその著作『私は指揮者である』の中で、「コンサートは毎回頭脳と筋肉と神経のエネルギーを信じられないほど消耗させる」と書いているが、そうした全力投球の姿勢はレコーディングでも変わらなかったに違いない。

 ミュンシュは1891年9月26日、当時ドイツ領だったシュトラスブルク(現ストラスブール)に生まれた。音楽家の家庭にあって彼は幼くして様々な楽器を学び、シュトラスブルク音楽院に入学してからはヴァイオリンに集中する。その後カール・フレッシュとリュシアン・カペーに師事。ヴァイオリニストとしての腕前は相当のものだったようで、1926年にはかのゲヴァントハウス管弦楽団に入り、コンサートマスターを務めていた。そこへ転機が訪れる。ライプツィヒのトマス教会でバッハのカンタータ演奏会が行われた時、代役として指揮台に立ち、指揮に目覚めるのである。
 まもなくゲヴァントハウス管のコンサートでも指揮をする機会があり、進路変更を決意。1932年ストララム管弦楽団を雇い、パリの赤十字基金募集コンサートで指揮デビューを飾る。以後、自らオーケストラを組織したり、有名オーケストラへの客演の際に現代作曲家の作品を紹介したりして、着々と名声を上げ、1938年パリ音楽院管弦楽団の常任指揮者となる。1946年に辞任すると今度はアメリカへ行き、ボストン交響楽団やニューヨーク・フィルなどのコンサートを振って話題をさらう。そして1949年ボストン響の首席指揮者に就任。13年間の黄金時代を経て、1962年に体調を壊し、勇退。
 もっとも、ここで彼のキャリアが終わるわけではない。1967年にパリ音楽院管弦楽団が発展解消され、パリ管弦楽団として生まれ変わった時、フランス国家が初代音楽監督に任命したのが他ならぬミュンシュだった。彼はこのオーケストラのために生命の最後の火花を散らし、就任から1年余り経った1968年11月6日、演奏旅行先のリッチモンドでついに力尽きて亡くなった。

 彼の指揮にはもったいぶったところがない。あるべきところにダイナミズムがあり、光彩があり、官能があり、歌がある。彼ほど強弱明暗のニュアンスの秘密を知悉し、オーケストラを意のままに操り、作品の醍醐味を体感させてくれる人もいないだろう。テンポのとりかたも大胆かつ玄妙で、有無を云わさず聴き手を引き込む力がある。最も調子の良い時の彼は、トスカニーニとフルトヴェングラーの相反する個性がひとつになったような境地さえ見せる。

 代表的な録音は、パリ管との組み合わせによるベルリオーズの幻想交響曲(1967年録音)、ブラームスの交響曲第1番(1968年録音)。どちらもミュンシュの精気が充満した大熱演。あたかも鞭と強壮剤で無理に煽っているような部分もあり、力ずくにやりすぎると不満を漏らす人もいるようだが、ここまで指揮者がオーケストラを好き放題に振り回している演奏というのは(「そこまでやるか?」と突っ込める面白さも含めて)、これはこれで痛快である。より過激な表現を求めるなら、1967年11月14日のパリ管お披露目コンサートの幻想交響曲を聴くといい。その毒々しい描写力と凄まじい音圧にのけ反りそうになるはずだ。

 シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」(1958年録音)、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」(1959年録音)、オネゲルの交響曲第2番(1967年録音)、ラヴェルの管弦楽名曲集(1968年録音)なども、ミュンシュの放つエネルギーのさまざまな効能が理想的なかたちであらわれている。『レクイエム』など、この作曲家への限りない愛と敬意が力みなく込められた、本当に崇高な、心にしみいる演奏だ。
 変わり種では、敬虔さも雄大さもないブルックナーの交響曲7番の快速ライヴ、来日時に披露された無駄に情熱的な「君が代」などが怪演としてマニアに知られている。

 最後に、伴奏を務めたもので一枚。リヒテル独奏によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番(1960年録音)を聴いてほしい。切り立った崖に高く覆われて、澄んだ河水の悠々と流るるが如く、ミュンシュの描き出すスケール感と、息をのむほど美しいリヒテルのピアノが、絶妙の好対照をなしている。