タグ「ラファエル・クーベリック」が付けられているもの

  • 「ワーグナー交響曲」から自分の交響曲に ブルックナーの交響曲第3番は1872年秋から1873年12月31日の間に作曲された。これが第1稿で、1874年には大幅に補筆され、さらに1876年秋から1877年10月12日にかけて改訂が行われた。この第2稿の初演は1877年12月16日、作曲者自身の指揮によって行われたが、大失敗に終わった。聴衆は演奏中に群れをなして...

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  • 『フィガロの結婚』から「プラハ」へ モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」は1786年12月6日に完成し、1787年1月19日に作曲者自身の指揮によりプラハで初演された。当時、プラハでは歌劇『フィガロの結婚』が大流行し、モーツァルトは押しも押されぬ人気作曲家となっていた。初演は当然のごとく成功裡に終わり、後にモーツァルトが「幸せな一日だった」と回想するほど忘...

    [続きを読む](2022.02.05)
  • ピアノ独奏から合唱へ ベートーヴェンの「ピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲」、通称「合唱幻想曲」は、1808年12月に数日間で作曲され、1808年12月22日にアン・デア・ウィーン劇場で初演された。ピアノ独奏による導入部は、ベートーヴェンが初演で即興演奏し、その後改訂されたものである。1808年12月22日といえば、交響曲第5番「運命」や第6番「田園」が初演...

    [続きを読む](2021.12.05)
  • 二十代のたくましい表現力 ベートーヴェンの交響曲とピアノ協奏曲は、第1番と第2番が古典派らしい優美さと明るさを持つ点で共通している。両作品ではこの作曲家の独創性はまだ表面化しておらず、第3番以降の作品よりも影が薄い。作風もアイディアも穏健で、激しい叫びも胸を潰すような重さもない。しかし、これらは旋律とリズムの力のみで勝負していた青春時代のたくましい表現力の結...

    [続きを読む](2021.03.03)
  • そして最後の審判が始まる マーラーの交響曲第2番「復活」は、1888年から1894年にかけて作曲され、1895年12月13日、作曲者自身の指揮により初演された。全5楽章の長大な交響曲で、第1楽章は20分以上、第5楽章は30分以上の演奏時間を要する。全体で80分を超える演奏は珍しくない。それでも人気が高く、この作品を聴いてマーラーに夢中になったという人は非常に...

    [続きを読む](2020.06.04)
  • 時空の概念を超える モーツァルトの全作品で、私がこれまでに一番多く聴いたのは「ジュピター」である。それは「最後の交響曲」に対して特別な気持ちが働くからでも、何か深遠なメッセージを読み取っているからでもない。聴いていると体が軽くなり、すぐに音楽の世界に入り込み、旋律とハーモニーに浸る悦びを味わえるからである。病気のときも、この音楽を聴くと楽になる。端的に言えば...

    [続きを読む](2017.01.23)
  • 円熟前の傑作 ベートーヴェンの交響曲第2番は、第8番と並び、語られることの少ない作品だ。しかし、ここには第3番「英雄」以降の作品にはない円熟前の魅力があり、青年らしい生気がある。端的に言えば、円熟した人間には書けない傑作である。「私はこの作品の中に、誰一人取り戻すことのできない快活な青春時代を、そして、欠点を除去しようとすればたちまちのうちに逃げ去ってしまう...

    [続きを読む](2016.07.10)
  • 絵画的描写ではなく感情の表出 ベートーヴェンの交響曲の中で最も有名な作品のひとつである第6番は、1808年に書き上げられた。作曲時期は第5番とほぼ同じだが、第5番の大部分の作曲は1807年に行われ、第6番の方は1808年の初春〜夏にかけて集中的に書かれたとみられている。 構想自体はそれ以前から抱いていたようで、1803年から1804年にかけて使用していた「ラ...

    [続きを読む](2014.03.28)
  • 独奏ピアノを持つシンフォニー ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、1859年1月22日にハノーファーで初演された。長い年月をかけて完成させた渾身の力作だったが、結果は成功とはいえなかった。しかし、さらなる失望が25歳の作曲家を襲う。その5日後、1月27日にライプツィヒで行われた演奏会が大失敗に終わったのである。演奏後、拍手した聴衆は数人だけだったという。世間の...

    [続きを読む](2012.10.12)
  • 夢幻と躁状態 シューマンのピアノ協奏曲イ短調は、この天才が生み出した、革新的で閃きに満ちた傑作である。彼は若い頃からピアノ協奏曲のジャンルに手を染めていたが、完成させたのはこれ1作のみ。完成時、シューマンは35歳になっていた。2作目、3作目を書くことが出来なかったのは、この時期(1845年)から精神のバランスを崩すようになったこと、また、管弦楽の扱いが未熟だ...

    [続きを読む](2012.05.30)
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