音楽 CLASSIC

アーノンクールのバッハ『ミサ曲ロ短調』 〜自分の力で咀嚼すること〜[続き]

2011.06.18
 ひとつ忘れられない思い出がある。2006年11月、サントリーホールでモーツァルトの交響曲第39番、第40番、第41番を聴いた時のことだ。3作とも有名すぎるほど有名な作品である。それをウィーンフィルが演奏する。こちらはさぞ魅惑的なモーツァルトが聴けるのだろうと期待する。しかし指揮者はアーノンクール。普通の演奏はしないだろう、という不安にも似た予感がふと脳裏をよぎる。
 果たして予感は的中し、重苦しく、なめらかさもなく、えらくストイックな39番と40番を延々と聴かされた。ウィーンフィルの持ち味である色彩と官能は、暗い顔をしたモーツァルトの長い歯ぎしりの音に変容していた。「流麗に演奏される40番なんか綺麗事だ」「アーノンクールの解釈は正しい」という人は大勢いるに違いないが、私は疲労困憊し、最後まで聴き通す根気を失いそうになった。
 しかし、最後の「ジュピター」で異変が起こった。ウィーンフィルの音色が解き放たれ、快楽的音響が奔出しはじめたのだ。きらめく音が脳天を突き抜けてゆく快感ーーあの最終楽章の目がくらむようなカタルシスは、その前の39番と40番の演奏があったからこそ得られたもの。当然アーノンクールはそこまで見越して、わざとああいう演奏をしていたのだ。

BACH_HARNONCOURT-2
 『ミサ曲ロ短調』の演奏にもーーさすがに脳天を突き抜けるとまではいかないがーー其処此処に仕掛けが施されていた。全部が全部わかりやすく快楽的なのは単調である。それが長く続けば飽和状態に陥ってしまう。苦しみを知らなければ真の快楽を知ることもないのだ。

 とはいえ、ただ単にミスが多発しているだけの聴き苦しい場面もあった。とくにCMWのホルン。体調が悪かったとか、楽器の調子が悪かったとか、何かしら理由はあるのだろうが、あの千鳥足のような演奏には本当にげんなりさせられた。一人だけ初心者が紛れ込んでいたと言われても私は驚かない。あれならむしろいない方が良かったくらいだ。ほかにもオケがもたつく場面は結構あった。
 そんな中、秀抜な出来を示したのがオーボエ・ダモーレ。オーボエ・ダモーレのオブリガートで歌われるアリアは全曲中の白眉で、実に甘く、情感たっぷりに演奏されていた。あともう一人、バロック・ティンパニの技も冴えていた。

 ソリスト(ドロテア・レシュマン、エリーザベト・フォン・マヌグス、ベルナルダ・フィンク、ミヒャエル・シャーデ、フローリアン・ベッシュ)は5人とも揺るぎない集中力で素晴らしい歌を聴かせていた。そして先述のアーノルト・シェーンベルク合唱団の神々しさ。はっきり言ってしまえば、ソリストと合唱団の魅力に救われた感もないではない。それにしても意義深い演奏会だった。

 座席は2階L1列15番。そこは「主賓席」と呼びたくなるほど視界的にベストの席だった。いつもこのホールでは1階の端か2階後方ばかりなので、物怖じしてしまうほど良い景観である。このホールは音響に難があるが、その点についても取り立てて不満を感じなかった。(相対的に)最良の響きが得られるスポットなのかもしれない。観客のマナーも、後ろの方は悪かったようだが、私の近辺はまずまず良く、静かだった。

 余談だが、その日はちょうど誕生日(祝うような年齢でもないが)でもあった。誕生日にミサ曲を聴くなんて縁起でもないと言う人もいるかもしれないが、「死を意識することにより生は充実したものになる」といった類の話はさておき、音楽史上稀に見る傑作を誕生日にコンサートで聴けたこと、しかも演奏史に革命をもたらした巨匠の指揮で味わえたこと、それ自体は幸運な出来事として記録して良いだろう。

 こういうコンサートにはこれからも何度でも足を運びたいが、演奏家の来日キャンセルが続いている現状、その機会もこれから減っていくことが予想される。そこで、忘れがたい体験をさせてくれたコンサートのことを、雑感を交え、ここに書きとめておくことにした。いずれほかのコンサートについても書きたいと思う。


【関連サイト】
Nikolaus Harnoncourt.info
Nikolaus Harnoncourt.de
J.S.バッハ『ミサ曲ロ短調』(CD)