音楽 CLASSIC

ディミトリ・ミトロプーロス 〜炎の聖職者〜 前篇

2011.03.10
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 ギリシャが生んだ巨星、ディミトリ・ミトロプーロスが遺したレコードには凄絶な輝きがある。一度この指揮者の魅力にとりつかれたが最後、もう逃れられない。
 生前のミトロプーロスは、人間離れした記憶力でどんな複雑な総譜も完全に暗譜し、作品の核をえぐり、オーケストラがそれまで出したことがないマグマのような音を奔出させ、聴き手を畏怖と緊張と興奮で縛りあげた。指揮棒は晩年になるまで滅多に使わず、痙攣的な手と体の動きで音楽の想念を奏者に伝えていたが、その伝播力が尋常でなかったことは遺された録音からもはっきりとわかる。

 1896年3月1日、ギリシャのアテネでミトロプーロスは生を受けた。聖職者の家系であったが、音楽の道を選び、アテネ音楽院に入学。1919年、メーテルリンクの「修道女ベアトリス」を台本にした自作オペラを上演。サン=サーンスに評価され、その援助で留学する。1920年、ベルリンでフェルッチョ・ブゾーニにピアノと作曲を師事。ほどなくしてベルリン国立歌劇場の練習指揮者となり、予習ピアニストを務めるかたわら、音楽監督だったエーリヒ・クライバーの下で指揮を学ぶ。
 1924年、アテネ音楽院管弦楽団指揮者(ブトニコフと共同)、1927年には単独で音楽監督、1930年に母校の作曲家教授となる。同年、ベルリン・フィルの客演指揮に招かれ、一大転機を迎える。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の独奏者として予定されていたエゴン・ペトリが多忙なスケジュールと諸事情のためにこの難曲をマスターできない、と辞退。コンサートが危機に陥りかけたところ、ミトロプーロスが果敢に弾き振りし、大成功を収めたのである。これにより彼の名声はヨーロッパ中に轟いた(一方のエゴン・ペトリは面目丸潰れである)。
 1936年、ボストン交響楽団を振ってアメリカ・デビュー。当時、彼の指揮に魅了された青年の一人がレナード・バーンスタインである。1937年にはミネアポリス交響楽団音楽監督、1949年にはレオポルド・ストコフスキーと共にニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となり、1950年には単独で音楽監督に就任。この頃がミトロプーロスのキャリアの絶頂期だが、当時のストレスは相当なものだったようである。1958年に辞任してからはフリーの指揮者としてヨーロッパを中心に活動していたが、1960年11月2日、心臓発作で急逝した。ミラノ・スカラ座管弦楽団とマーラーの交響曲第3番をリハーサルしている最中のことであった。

 遺された音源は、音楽監督を務めたニューヨーク・フィルとミネアポリス交響楽団と組んだものが多い。その中でベルクの「ヴォツェック」(1951年ライヴ)は指揮者の炯眼を感じさせる素晴らしい演奏だ。マーラーの交響曲第1番(1951年ライヴ)、チャイコフスキーの交響曲第5番(1954年録音)も情熱的で、強い表現意欲を感じさせるが、オーケストラが指揮にちゃんとついていけていないところが気になる。察するに、ミトロプーロスが要求するアーティキュレーションの難易度の高さに団員たちがやや音を上げていたのではないだろうか。

 ベルリオーズの「幻想交響曲」(1957年録音)などは、とくに指揮者の理想と現実というものを感じさせる。これはこれで十分画期的な演奏なのだが、ミトロプーロスが要求しているものはもっと上にあるように思えてならない。もし、これをベルリン・フィルやウィーン・フィルが演奏していたらブーレーズやラトルの「幻想」が霞んでしまうくらいの革新的なサウンド・ビジョンを生み出すことが出来たはずだ。
続く

【関連サイト】
ディミトリ・ミトロプーロス 〜炎の聖職者〜 後篇
ディミトリ・ミトロプーロス(CD)