音楽 CLASSIC

フリッツ・ライナー 〜最小限の力で生まれる強靭な音楽〜 その1

2011.08.05
 フリッツ・ライナーの指揮は動きが小さく、後方にいる楽団員たちからは非常に見づらかったという。そのせいで彼らは常に緊張を強いられ、戦々恐々とし、周囲の音に注意を払っていなければならなかった。その結果として、集中力が極限まで高められ、アンサンブルの緊密さが増し、無駄な贅肉のない音楽が生み出された。指揮棒を1センチ動かすだけで稲妻のような強奏を炸裂させるそのスタイルは、「チョッキのポケットサイズのビート(VEST POCKET BEAT)」と呼ばれ、最小限の肉体的動作によって最大限の音楽的効果をもたらすやり方として評論家から絶賛された。

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 こういうエピソードには誇張が付き物なので、正直なところ、真偽のほどは分からない。現存する映像を見る限り、いつも振りが小さかったわけではなさそうだし、かなり派手に指揮棒を振り上げている写真も沢山残されている。当然、オペラとコンサートでは振り方も違っていただろう。ただ、いくつかの資料から判断する限り、ほかの指揮者と比べて相対的に振りが小さく、腕の動きのヴァリエーションが少なかったことだけは間違いなさそうである。

 指揮棒の代わりに活発に動いていたのが「目」である。眼光は鷲のように鋭く、ミスを犯した奏者は、その目で睨まれると生きた心地がしなかったという。実際、ライナーはスパルタ型の指揮者で、オーケストラ相手に君主として振る舞い、ちょっとでも演奏が気に入らないと即座に解雇していた。ひとことで言えば、人情のかけらもない鬼である。ただ、演奏がうまくいった時は団員たちと握手したり、気に入った団員のことを「息子」と呼んだりする一面もあった(その団員の一人がチェリストのヤーノシュ・シュタルケル)。

 録音で聴くことができる演奏の大半は、明確この上ないフォルムを持ち、鉄壁のアンサンブルと剛毅な響きを兼ね備えている。その演奏を「厳格」「ザッハリヒ」と評する人もいるが、それだけでは十分な表現とは言えない。そこには油絵のような艶やかさもあり、体操選手の筋肉のような柔軟さや弾力性もある。容赦のないインテンポで押しまくる反面、「これがライナー?」と耳を疑いたくなるほどロマンティックなフレージングで歌い上げることもある。一筋縄ではいかない指揮者なのだ。

 1888年12月19日、フリッツ・ライナーはハンガリーのブダペストに生まれた。ブダペストの王立音楽院で学び、1909年にブダペスト・オペラで『カルメン』を指揮してデビュー。ライバッハ歌劇場、ブダペスト・フォルクスオーパーで研鑽を積み、1914年にドレスデン国立歌劇場の首席指揮者に就任。R.シュトラウス、アルトゥール・ニキシュと親交を結び、この2人から大いに影響を受けた。「アインザッツには目を使えばいい」とライナーに教えたのはニキシュだという。
 1922年に渡米し、シンシナティ交響楽団の指揮者に就任。ライナーの絶対君主制に楽団員たちが反発し、長い間緊張関係が続いたが、演奏の質は向上したと言われている。1931年にシンシナティ響を去った後、カーティス音楽院指揮科の教授に就任。その時の生徒がレナード・バーンスタイン、ルーカス・フォスである。1938年ピッツバーグ交響楽団の音楽監督に就任。1948年メトロポリタン歌劇場の指揮者になり、『サロメ』でセンセーションを巻き起こす(タイトルロールはリューバ・ヴェリッチュ)。1953年からはシカゴ交響楽団の音楽監督として権勢をふるうが、1960年10月に心臓発作を起こし、翌年音楽監督を辞任。1963年11月15日、ニューヨークで急逝した。
続く
(阿部十三)

※フリッツ・ライナーのデビュー時までのプロフィールについては諸説あるが、ここでは『ニューグローヴ世界音楽大事典』に従った。


【関連サイト】
フリッツ・ライナー 〜最小限の力で生まれる強靭な音楽〜 その2