タグ「三島由紀夫」が付けられているもの

  •  小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962年)を観たのはだいぶ前のことだが、最初にこれを観た時から中村伸郎の存在が気になっていた。中村が演じているのは、笠智衆扮する主人公の旧友で、男だけの集まりで酒を飲みながら毒のある冗談を飛ばす中年男の役だ。皮肉っぽいがお人好し、身なりが良くてモダンで清潔感があり、話しぶりは軽妙、仲間にとっては「面白い奴」なのだろう。でも...

    [続きを読む](2020.03.04)
  •  アナトール・フランスの『神々は渇く』は、フランス革命期の恐怖政治とそれに巻き込まれる人々を描いた歴史小説で、1911年11月から1912年1月にかけて『パリ評論』誌に掲載され、1912年6月に単行本として刊行された。多くの資料に基づいて組まれたそのプロットは老練、緻密な風俗描写は圧巻というほかなく、読者を一人残らず18世紀末の騒乱の体験者にしてしまうような...

    [続きを読む](2017.05.06)
  • 『夏花』の死 1940年3月、詩集『夏花』が出版された。これは『わがひとに與ふる哀歌』から、さらに一歩成熟したことをうかがわせる内容だ。巻頭に置かれているのは、三島由紀夫が「もつとも音楽的な、新古今集以来もつともきらびやかな日本語で書かれた、あの、ほとんど意味のない、空しいほどに明るい」と評した「燕」である。 「夕の海」と「燈臺の光を見つつ」は、灯台に照らさ...

    [続きを読む](2014.06.21)
  •  教員志望の同級生に誘われて、塾講師をしていたことがある。1994年4月から1996年3月までの約2年間の話だ。 中学2年生と中学3年生の国語のクラスを受け持っていた。生徒は各16名。授業時間は90分で、1日2コマ。時給は2600円、辞めた時は2900円だった。当時住んでいたアパートから車で50分という遠い場所にあったが、ちょっとした夕食付きだったこともあり...

    [続きを読む](2013.08.10)
  •  新左翼に大きな影響を与えた哲学者、ヘルベルト・マルクーゼの代表的著作に『エロス的文明』がある。これは1955年に出版され、ベストセラーになり、3年後には邦訳も出た。三島由紀夫は1959年1月に季刊誌『声』でこれを取り上げて痛烈に批判し、その思想を「非歴史的な途方もない、天体望遠鏡のやうな客観性」と皮肉っている。抑圧からの解放、反体制を唱える人はいつの時代に...

    [続きを読む](2012.10.20)
  •  磯田光一の最初の評論集『殉教の美学』は、単に情熱的な作家論というにとどまらず、示唆に富んだ戦後論であり、日本人論である。初めてこれを読む人は、その鋭く殺気立った論調に当惑し、「ここまで断定的に書いていいのか」と思うかもしれない。しかし、底流には豊かな知性が広がっていて、戦後の日本人の思考を読み解く上で非常に興味深いキーワードが随所にちりばめられている。 磯...

    [続きを読む](2012.10.13)
  •  デボラ・カーの熱心なファンとして知られた作家に三島由紀夫がいる。『クォ・ヴァディス』を「無味乾燥な見世物」と酷評した彼は、『地上より永遠に』でこの女優の魅力を発見した。「上官との姦通事件をとりあげているのは、いかにもアメリカらしい率直さで、好感がもてるが、上官の妻になるデボラ・カーはすばらしい。雨の日の最初の男との逢瀬は、不感症的魅力の満溢した女を見せる。...

    [続きを読む](2012.01.26)
  • シネフィルが愛する『赤い天使』 ところで、増村の代表作は何になるのだろう。 映画の解説文などを書いている時、代表作を1、2本挙げながら人名を紹介することがしばしばある。例えば「『ローマの休日』『ベン・ハー』のウィリアム・ワイラー」とか、「『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーン」といった風に。このように単なる好悪の感情を超えて、誰にも否定...

    [続きを読む](2011.11.18)
  •  ジャン・コクトーはレオナルド・ダ・ヴィンチの系譜に属する最後の万能人である。詩、小説、戯曲、評論、絵画、陶芸、彫刻、舞台演出、映画監督、バレエ制作などなど、多方面で大きな功績を残した。人呼んで〈20の顔を持つ男〉。そんな彼にあえてひとつだけ肩書きを与えるとすれば、やはり詩人ということになるだろう。その溢れかえる才能から生まれたオブジェは、言ってみれば全て〈...

    [続きを読む](2011.04.06)
  •  若尾文子は手の届かない「低嶺(ヒクネ)の花」である。親しみやすく、誰にでも手の届きそうな雰囲気があるのに、周囲を見回しても、彼女のような女性を見つけることはまずできない。どこにでもいそうで、絶対にいない。それが、最初から縁がないと諦めることのできる「高嶺の花」に対するよりも、ある意味、烈しい渇望へとつながる。こんな恋人がほしい、こんな奥さんがほしい、こんな...

    [続きを読む](2011.02.10)
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