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アナトール・フランス『神々は渇く』 恐怖の時代を生きる

2017.05.06
 アナトール・フランスの『神々は渇く』は、フランス革命期の恐怖政治とそれに巻き込まれる人々を描いた歴史小説で、1911年11月から1912年1月にかけて『パリ評論』誌に掲載され、1912年6月に単行本として刊行された。多くの資料に基づいて組まれたそのプロットは老練、緻密な風俗描写は圧巻というほかなく、読者を一人残らず18世紀末の騒乱の体験者にしてしまうようなリアリティをたたえている。

 主人公は、貧しくも正義感あふれる愛国的な青年画家エヴァリスト・ガムラン。彼はあるきっかけで革命裁判所の陪審員になって権力を持ち、ジャコバン派の影響を受けたことで、「残虐非道な化物」と化し、元貴族、亡命を試みた者、無神論者、娼婦等をことごとく死刑にする。もう一人の主要人物は、元貴族で今は屋根裏部屋で暮らす老人ブロト。ルクレティウスを信奉する無神論者だ。聡明な彼は、人命を脅かす革命裁判所を長く続かない存在とみなし、「革命裁判所には低劣な正義感と平板な平等意識とが支配しています、これがやがて革命裁判所を憎むべきもの嗤うべきものにし、万人に嫌悪を催させることになるでしょう」と予言する。しかしそんな彼が逮捕されるのも時間の問題だった......。

 エヴァリストは恋人エロディが過去に付き合っていた男に嫉妬し、それらしき貴族が逮捕されると、こいつに違いないと思い込み、エロディが否定するにもかかわらず、人違いで死刑を宣告する。また、革命裁判所の判事ルノダンは、逮捕された貴族シャサーニュの愛人であるジュリ(エヴァリストの妹)からシャサーニュを救ってほしいと頼まれると、肉体交渉を迫り、その後で約束を破る。まさにやりたい放題だが、ブロトが予言したように、民衆から「もうたくさんだ!」という声が上がりはじめ、いわゆるテルミドールのクーデターによってロベスピエールが失脚すると、エヴァリストたちはかつて貴族たちを罵っていた民衆に罵倒されながら、革命広場へと送られる。エヴァリストは自分がしたことを悔やんだりはしない。彼はより多くの人間を死刑にできなかった己の寛容さを悔みつつ断頭台の露と消えるのである。

 アナトール・フランスは魅力的な老人ブロトにシンパシーを寄せているが、エヴァリストを突き放しているわけではない。この美貌の怪物は、飢えた母子にパンを恵み、農夫が小麦を刈るのを見て涙し、見知らぬ少年に銀貨を与え、初めて陪審員席にすわった時は、騎兵隊の馬糧でひと儲けしようとした悪党を「証拠がない」と無罪にした。「残虐非道な化物」になってからは、常に悪夢にうなされている。「自分は忌まわしい者とされて死ぬだろう」と自覚もしている。それでも冷酷に徹するのは、王や貴族や彼らに与する者など「祖国の敵どものけがれた血」を流す大役を引き受けようとするヒロイックな愛国心ゆえだ。

 愛国心の問題は複雑である。例えば、「国王万歳!」と叫んで逮捕される娼婦には愛国心がないのかといえば、それもまた大きな誤りなのだ。エヴァリストが彼女たちを憎むのは、個人的な感情に起因している。「官能と精神との快楽を享受し、生きることが愉しかった時代に生きていた」者の存在を嫌悪しているのだ。その自覚がない彼は、革命の混乱時において、誰かがやらねばならぬ仕事を愛国者として全うし、「公安のために厳正公平に断罪している」と思い込む。性生活もたがが外れたようになり、狂った男の血の匂いに興奮している恋人の激しい愛撫によって快楽と休息を得ている。

 このような人間を人でなしの化物として攻撃するのは簡単だが、いざ狂熱の時代に投げ込まれ、同じ立場に身を置く羽目に陥った時、エヴァリスト・ガムランのようにならないと断言できる人がいるだろうか。作者は主人公について、次のように語っている。「主人公ガムランは、ほとんど化物のような人物だ。しかし人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全であること、されば人生の掟は寛容と仁慈とでなければならないことを、私は示したかったのだ」。

 人間の不完全さについては、『エピクロスの園』にも、別の言い方で記されている。

「何らかの複雑な題目についての理路整然たる議論も、その議論を進めた人の頭の器用さを証明する以外のものでは決してないであろう。人間がこの偉大な真理にいくらか気づいているにちがいないことは、われわれは推論によって身を処することは決してないことによってもわかる。人間は本能と感情とによって導かれる。自己の情念や、愛や、憎悪や、とりわけ自己の恐怖(これは人間にとって有益なものであるが)に従って行動する」
(『エピクロスの園』)

 『わが友の書』の「白衣の婦人」に記された言葉の方は、もっと簡潔な表現である。

「賢く考えていながら愚かに行動するのが、人間の性だ」
(『わが友の書』)

 『エピクロスの園』に記された、「快楽は恐怖が混じっていてこそ人を陶酔させる」や「人間が真に人間としてとどまるのは憐れみによってである」という主張は、『神々は渇く』にも貫かれている。憐れみは家族や友にとどまらず、見知らぬ人へも注がれなければならない。嵐の中で周囲が混乱し、自分の理性もぐらついている中で、それを行うのは容易ではない。突然権力を得てしまったエヴァリストのような小市民であれば、なおさらだ。強い権力を持つ人間は、それに相当する器の持ち主でなければならない。器の小さい人間は、権力を持つと例外なく濫用しはじめる。そして許容量を超えた権力は例外なく血を求める。

 エヴァリストは貧しい芸術家で、純粋で、弱き者に同情的で、無神論者に共感することもあった。それが、ジャコバン派の集会に通いつめるうちに、「清廉潔白の人」ロベスピエールの教えに染まり、その分身たらんとしたのである。こういうタイプの人間はどこにでもいる。彼らは往々にして、新たに生まれ変わった自分をむやみに徹底させ、極端に走りたがる。権力を与えてはならない人間の一例と言えるだろう。理想を述べてばかりいる人間は、一見高邁だが、やけくそになるのも早く、最終的には滅びの美学に酔いはじめる。そんな権力者の巻き添えにはなりたくないものだ。

 「人は歴史から、何も学ばない」とは歴史の漫画にも書かれていることだが、『神々は渇く』という意味深なタイトルを持つこの小説を読むと、それを痛感せずにいられない。どんなに凄惨な歴史を学ぼうと、「人類が消費すべき狂気と愚劣さの消費量はいつの時代にも同じなのである」(『エピクロスの園』)。事実、この小説がフランスでベストセラーになった後も、戦争があり、ナチス占領時代や戦後の混乱時に、愛国者が愛国者に断罪された。むろん日本も例外ではない。正しい愛国とは何か、国を滅ぼさないために何をすべきか、というテーマは常に意識されるべきである。臭いものに蓋をするように扱うのは間違っている。かつて磯田光一は三島由紀夫論の中で、「人間は本質的にファシズムを渇望し、美しい死にあこがれるという事実を、なぜ直視しようとしないのか」と問うた。イヨネスコ的に言えば、人間は次の日から容易に「犀」になり得るのだ。権力者は、そういう純粋な本質を刺激し利用する者であってはならない。

 『神々は渇く』は思想書ではなく、歴史小説の傑作であり、文学作品として純粋に面白い。革命裁判所での裁判の様子は、あたかも作者自身が実際に見てきたかのようで、迫力と臨場感が尋常でない。史実がベースとなっているので、ストーリーの展開は周知のものだが、先にも述べた通り、その時代の目撃者になっている気持ちにさせられる。結果、われわれは様々な思想や感情の嵐を実際にくぐり抜けてきたような疑似体験をすることになる。詩や小説だからこそ、難しい思想書では伝わりづらい深い思想が身体にしみて伝わってくる、ということもあるのだ。もっとも、「人間は本能と感情とによって導かれる」ため、いざという時、自分の行動に生かされるかどうかは保証できないが。
(阿部十三)


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