磯田光一『殉教の美学』 苛烈なる人間洞察
2012.10.13
磯田光一の最初の評論集『殉教の美学』は、単に情熱的な作家論というにとどまらず、示唆に富んだ戦後論であり、日本人論である。初めてこれを読む人は、その鋭く殺気立った論調に当惑し、「ここまで断定的に書いていいのか」と思うかもしれない。しかし、底流には豊かな知性が広がっていて、戦後の日本人の思考を読み解く上で非常に興味深いキーワードが随所にちりばめられている。
磯田光一の評論といえば、『思想としての東京』『永井荷風』『萩原朔太郎』の方が名高いが、これらとは比較にならないほど論じられる機会の少ない『殉教の美学』こそ、今の時代に読まれるべき書なのではないかと私は考える。
「彼らは、人間がいかに「悪」や「美」を希求しているかについては、意外なほどに盲目である。人間は本質的にファッシズムを渇望し、『美しい死』にあこがれるという事実を、なぜ直視しようとしないのか」
『殉教の美学』の論拠となっているのは、三島由紀夫の「魔ーー現代的状況の象徴的構図」である。これは1961年7月、『新潮』に掲載されたエッセイであり、磯田はこの一部分を論文の中で度々引用しながら持論の補強を行っている。
「若い不平たらたらなサラリーマンの心には、社長になりたいといふ欲求と紙一重に、若いままの自分の英雄的な死のイメーヂが揺曳してゐる。これは永久に太鼓腹や高血圧とは縁のない死にざまで、死が一つの狂ほしい祝福であり祭典であるやうな事態なのである。かつては戦争がそれを可能にしたが、今の身のまはりにはこのやうな死の可能性は片鱗だに見当らぬ。壮烈な死が決して滑稽ではないやうな事態を招来するには、自分一人だけではなく、社会全体の破滅が必要なのではあるまいか?」
「人間は何らかの神をもたずに生きられるものではない。観念の支配においてこそ、生はその輝きを示すのである」
「高見順=挫折者の夢」は1961年6月に発表されたものである。「魔」が書かれた時期を考えると、運命的符合といっていいだろう。そして、この評論家は三島の「魔」を得ることで前進し、数年後にはこう問いかける。
「しかし人間は、自ら進んで不幸を求める動物ではないのか」
人間は合理的に割り切れる生き物ではない。幸せになれないと分かっていても愛してしまうような、不合理な選択をするところがある。だからといって、他人がそれを見て「あわれだ」というのは傲慢以外の何物でもない。ある種の苦痛や制約の中で充実感を増す人生もあるのだ。むろん、その輝きは明るいものではないが、怖いほど輝いてはいるのである。
「......そういう反ヒューマニズム的、精神主義的な生き方に徹しているこれらの人物たちが、他に見られぬ充実した生命力を感じさせるのはなぜであろうか。むろん人間性がそれなりの価値を持っていることは言うまでもない。しかし人間には、人間の自然的欲求を否定し克服し、生を一つの虚構によって意味づけることによって、逆に単なる自然的な人間以上に人間的になりうるという性格が具わっているのではないか。ドン・キホーテは彼の実生活を破滅に導いた純潔な夢想ゆえに、賢明なサンチョ・パンサ以上に人間的であった」
『殉教の美学』には刺激的なレトリックが溢れている。いいたいことがありすぎて要点だらけになっている感もある。ただ、この部分こそが真の要点なのである。
【関連サイト】
磯田光一(みすず書房)
磯田光一
磯田光一『殉教の美学』 苛烈なる人間洞察 [続き]
磯田光一の評論といえば、『思想としての東京』『永井荷風』『萩原朔太郎』の方が名高いが、これらとは比較にならないほど論じられる機会の少ない『殉教の美学』こそ、今の時代に読まれるべき書なのではないかと私は考える。
「彼らは、人間がいかに「悪」や「美」を希求しているかについては、意外なほどに盲目である。人間は本質的にファッシズムを渇望し、『美しい死』にあこがれるという事実を、なぜ直視しようとしないのか」
(磯田光一「『日本』という"美"と"悪"=『林房雄論』と『喜びの琴』」)
これは『殉教の美学』に収められた論考からの引用で、「彼ら」とは戦後のヒューマニストのことである。
三島由起夫論を中心に据えた『殉教の美学』は、1964年に出版された。当時、この評論集はさほど話題を呼ばなかったようだが、一部の知識人から、右翼的、反動的というレッテルを貼られた。「自分がまず本質的にファシズムを渇望していなければ、そういう風に考えるはずがない」という短絡的発想により区分けされたことは想像に難くない。そんな動きを警戒してか、磯田は1969年に出た増補版に「擬装せる予言者=偶像としての三島由紀夫」を加え、「およそ愛国者でもない私は、天皇制には何の興味もないし、個人の人権が保障されるなら、日本国家が解体することに、べつだん異議はない」という一文で自身のスタンスを表明している。
『殉教の美学』の論拠となっているのは、三島由紀夫の「魔ーー現代的状況の象徴的構図」である。これは1961年7月、『新潮』に掲載されたエッセイであり、磯田はこの一部分を論文の中で度々引用しながら持論の補強を行っている。
「若い不平たらたらなサラリーマンの心には、社長になりたいといふ欲求と紙一重に、若いままの自分の英雄的な死のイメーヂが揺曳してゐる。これは永久に太鼓腹や高血圧とは縁のない死にざまで、死が一つの狂ほしい祝福であり祭典であるやうな事態なのである。かつては戦争がそれを可能にしたが、今の身のまはりにはこのやうな死の可能性は片鱗だに見当らぬ。壮烈な死が決して滑稽ではないやうな事態を招来するには、自分一人だけではなく、社会全体の破滅が必要なのではあるまいか?」
(三島由紀夫「魔ーー現代的状況の象徴的構図」)
エッセイ自体は、「通り魔」の「絶対孤独の自己証明」について語ることから始まり、次に「一般市民」の「死のフラストレーション」に言及し、最後に両者の心理的構図を包摂する「作家」という存在を論じたものである。人間の心の中に棲む「壮烈な死」への願望が遠慮なく言語化されているが、こういう殉教願望的な思考の背景に三島自身の戦争体験があることはいうまでもない。
三島が「魔」を書く以前から、磯田は同じ思考のベクトルを持っていた。それは次の文章からもはっきりとわかる。
「人間は何らかの神をもたずに生きられるものではない。観念の支配においてこそ、生はその輝きを示すのである」
(磯田光一「高見順=挫折者の夢」)
「高見順=挫折者の夢」は1961年6月に発表されたものである。「魔」が書かれた時期を考えると、運命的符合といっていいだろう。そして、この評論家は三島の「魔」を得ることで前進し、数年後にはこう問いかける。
「しかし人間は、自ら進んで不幸を求める動物ではないのか」
(磯田光一「『芸術と実生活』理論批判=『溪流』評価の問題」)
人間は合理的に割り切れる生き物ではない。幸せになれないと分かっていても愛してしまうような、不合理な選択をするところがある。だからといって、他人がそれを見て「あわれだ」というのは傲慢以外の何物でもない。ある種の苦痛や制約の中で充実感を増す人生もあるのだ。むろん、その輝きは明るいものではないが、怖いほど輝いてはいるのである。
「......そういう反ヒューマニズム的、精神主義的な生き方に徹しているこれらの人物たちが、他に見られぬ充実した生命力を感じさせるのはなぜであろうか。むろん人間性がそれなりの価値を持っていることは言うまでもない。しかし人間には、人間の自然的欲求を否定し克服し、生を一つの虚構によって意味づけることによって、逆に単なる自然的な人間以上に人間的になりうるという性格が具わっているのではないか。ドン・キホーテは彼の実生活を破滅に導いた純潔な夢想ゆえに、賢明なサンチョ・パンサ以上に人間的であった」
(磯田光一「戦後文学の精神像=リアリズムの問題」)
『殉教の美学』には刺激的なレトリックが溢れている。いいたいことがありすぎて要点だらけになっている感もある。ただ、この部分こそが真の要点なのである。
【関連サイト】
磯田光一(みすず書房)
磯田光一
磯田光一『殉教の美学』 苛烈なる人間洞察 [続き]
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