文化 CULTURE

私が塾講師だった頃

2013.08.10
 教員志望の同級生に誘われて、塾講師をしていたことがある。1994年4月から1996年3月までの約2年間の話だ。

 中学2年生と中学3年生の国語のクラスを受け持っていた。生徒は各16名。授業時間は90分で、1日2コマ。時給は2600円、辞めた時は2900円だった。当時住んでいたアパートから車で50分という遠い場所にあったが、ちょっとした夕食付きだったこともあり、結局大学を卒業するまでその塾で教えていた。

 一般論として、塾講師の仕事は教えることに喜びを感じる人、子供が好きな人に向いているとされている。当時の私はそれとは逆のタイプだったし、教員志望でも何でもなかった。あくまでも目当ては時給であり、それ以外の何物でもない......はずだった。

 最初の1ヶ月は、反抗期真っ只中で警戒心全開の中学生を相手に四苦八苦していた。教員志望の同級生を真似て、声を張り上げ、「さあ、みんな、がんばろう!」という具合に熱血教師を演じていたが、誰もついてきてくれなかった。生徒たちは悪戯とおしゃべりに夢中で、90分という時間はむなしく過ぎていくばかり。私は「別に時給さえ貰えればそれでいい」とも思えなくなるほど疲れ果てていた。そこで、柄にもないことをするのはやめた。

 往年の指揮者にフリッツ・ライナーという人がいるのだが、彼はわずかな身ぶりと目の動きによってオーケストラの団員の緊張と集中力を高め、ダイナミックで強靭な音楽を作り出していた。最小限の動作で最大限の効果を引き出すやり方である。私はこの方法論を無理矢理アレンジして塾に持ち込み、声量をセーブし、椅子からもほとんど立たず、注意する際も声を上げず、低い声で注意するか、睨みつけるかにとどめた。

 相手は中学生、そんなことをしてもますます図に乗って騒ぐだけだと思われるかもしれないが、事実はそれに反し、何人かの生徒が授業に注意を向けはじめた。狙いどおりにいったのかどうかは分からない。「この先生、大変そう」と同情された可能性もある。塾長や同僚からは、「君のクラスは静かだね」といわれた。おそらく授業をさぼっているのではないかと疑われていたのだろう。塾長が様子を見に来る回数も多かった。

 ちょうどその時期のことである。
 私が日本文学を専攻していることに対し、ある生徒が「右翼っぽい」といいだした。日本文学専攻=右翼。おそらく覚えたての言葉をつかいたかっただけなのだろう。それでも、私はショックを受けた。日本人が日本文化、日本文学、日本語を深く知ろうとするのは不自然なことではない。むしろ自然な成り行きといいたいくらいである。世間には「国際化」と称して国語より英語を重んじるべきだと平然と口にする日本人もいるが笑止である。自国不在の他国理解など絵空事だ。それに、私が日本文学を専門にしたのは、日本の作家、歌人、詩人が刻んだ言葉そのものに、同じ日本人の感性を以て直接ふれることに大きな意義と醍醐味を感じたからである。と、そんなことを語って聞かせた。

 内心生徒が、「でも日本文学なんて面白くないじゃん」と思っているであろうことは想像出来た。教科書に載っている作品に対して、露骨に「つまらない」という生徒もいた。皮肉なことだが、国語の授業を通じて生徒が本嫌いになってしまうケースもあるのだ。実際、私自身がそうだった。中学2年の頃、実家の本棚にあった『雪国』を読むまでは本が嫌いで仕方なかった。

 しかし、国語の先生の使命は、生徒を本好きにさせることに尽きるのではないか。乱暴にいってしまえば、泉鏡花、谷崎潤一郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、川端康成、横溝正史、坂口安吾、織田作之助、梅崎春生、三島由紀夫、安部公房の作品を立て続けに読むだけでも、日本文学の多彩さや奥深さを知ることが出来るし、同時に、日本語の表現も身につくというものだ。本の内容に興味を持てば、読めない漢字や分からない言い回しがあっても辞書を引いて知ろうとする。その自発性を引き出すことが肝要である。

 そういうわけで、私は授業の後半に5分程度の時間をとり、生徒たちがまだ知らないであろう日本文学の作品や日本文学史上のエピソードを紹介していった。「本を読め」とはいわなかった。得意げな口調になったり、情熱的な口調になったり、頼りなげな口調になったりしないようにも気を付けた。なるべく淡々と、言葉を少なめにして説明した。難解な作品は避けたが、出てくる漢字が中学生には難しいのではないか、といったことはあまり配慮しなかった。

 さらにその後、日本語表現の粋ともいうべき慣用句のクイズを20分間行った。こちらが当たり前のようにつかっている慣用句も、生徒たちはまだ知らないのである。罰ゲームのようになっていた書き取りも、手で書くことによって言葉は初めて自分の身につくのだから無意味な行為ではないと諭した。

 後半の25分は、こちらが想定していた以上に盛り上がった。そして、いつの間にか、その25分間のオマケのために65分間の「義務教育」を踏破する、という雰囲気が出来上がっていた。国語の成績も少しずつ上がった。谷崎の「人面疽」など、私が紹介した作品について、「学校の先生にきいたら、読んだことないっていわれた」と嬉しそうに話す生徒もいた。

 こういうやり方は取り立てて有効なものでもないのだろうが、当時私が受け持ったクラスに関していえば、国語を嫌う生徒はいなくなったし(元から優秀な生徒もいた)、国語のテストの点数に足を引っ張られる生徒もいなくなった。最後の授業の時は、高校の先生になることが決まった同級生以上に、別れを惜しまれた。これは私の数少ない自慢話のひとつである。

 とはいえ、マニュアルと違ったやり方で教える以上、そこには「私の責任」が生じる。それが読解力を鍛える上でも、日本語や日本文学の魅力を知る上でも、間違った選択ではないのだという自信を得るまで、吟味する必要がある。また、文学を語ることが特定の政治思想を押しつけることにならないよう注意を払わなければならない。相手が中学生の場合は特にそうだ。中学の時に好きになったものが一生涯の精神的支柱になる例もあるのだ。

 仕事にやりがいを感じながらも、卒論の執筆と重なっていた時期はストレスに見舞われ、休みたいと何度も思った。私は腹痛に悩まされるようになり、大学図書館のソファに長時間俯せになり、いやな汗をかきながら、次の授業で紹介する作品や慣用句を決めていた(後日、医者に行ったら十二指腸潰瘍と診断された)。時給目当てで始めた頃は、こんな事態になるとは予想もしていなかった。

 むろん、塾での経験から得たものは、潰瘍以上に大きかった。出版社に入り、主に中高生を対象とした雑誌に携わっていた時も、私は塾の生徒たちを念頭に置くことで、どういう言葉をつかえば「大人になりかけている子供」に伝わるか、自分なりにヴィジョンを持つことが出来た。入社当時はなかなか仕事に慣れることが出来ず、大変な思いをしたが、生身の中学生とぶつかりあい、ふれあった塾講の経験のあることが私のひそかな強みだった。決して大袈裟な話ではなく、あの塾での2年間がなければ、私はリアルな読者像を思い描くことが出来ないまま、単にこなすだけの仕事をしていたと思う。なので、模範的とはいえない塾講師の授業に適応してくれた生徒たちには頭が上がらないのである。
(阿部十三)

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