映画 MOVIE

ジャン=ピエール・メルヴィル 〜愛と友情と裏切りの映画〜

2013.09.21
ベッケルとメルヴィル

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 長編2作目の『恐るべき子供たち』が公開された後、ジャン=ピエール・メルヴィルは映画界から足を洗う決心をした。1950年のことである。当時、メルヴィルは疲れ切り、力尽きていた。そんな彼を再び映画に向かわせたのは、ジャック・ベッケルだった。

「......そんな次第で〈シネアック=テルヌ〉のそばのビストロにいて、まさに出ようという時、店の奥からジャック・ベッケルがダニエル・ジェランと連れ立ってやってきたんだ。『信じられないよ』互いの姿を認めるとベッケルは叫んだ。『僕たちはここに2時間前から座っていたんだ。観てきたばかりの『恐るべき子供たち』の話をしながらね。最高の映画だな......』ーー私は2人に飲み物は何がいいか尋ねることさえ出来なかった。が、2人と別れ、おんぼろの古い車に再び乗り込んだ時、妻と私は穏やかで幸せな気持ちだった。それがサインというものだろう。私は映画を諦めなかったよ!」
(ルイ・ノゲイラ『サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』)

 このインタビュー本の中で、ジャン=ピエール・メルヴィルは「私は友情を信じていないし、その存在も知らないが、自分の映画で描くのは好きだ」と述べているが、ベッケルは例外的な存在だった。メルヴィルにとって、ベッケルは敬愛する11歳上の先輩であり、友人だった。ちなみに2人ともパリ生まれで、犯罪映画を得意とした監督であり、犯罪映画以外のジャンルでも傑作を遺している。公開された長編監督作品も共に13作である。

アメリカを愛したフランス人

 ジャン=ピエール・メルヴィルは幼少の頃から映画漬けで育ち、アメリカ映画に溺れていた。アメリカ文学にも夢中になった。そして、ハーマン・メルヴィルへの「純粋な賞賛と、一体化への欲望」から、本名のグランバックをメルヴィルにかえた。
 戦争が終わると、自分で製作会社を設立。1946年、29歳の時に短編を1作撮った後、メルヴィルは大きな賭けに出る。仏レジスタンスの精神的財産の一つ、ヴェルコールの『海の沈黙』の映画化を目論んだのだ。しかしヴェルコールはこれを拒絶。メルヴィルは大胆な条件を出して、強引に押し切った。その条件とは、作品が完成したらすぐにヴェルコールが選出した24人のレジスタンス活動家からなる審査委員会に披露し、1人でも上映に反対する者がいたらネガを焼却する、というものだ。撮影は1947年8月から12月にかけて行われた。

 『海の沈黙』は1948年に非公式の場で初上映され、審査委員会の承認を得た。まだ無名だった宣伝マン、ジョルジュ・クラヴェンヌ(フランソワーズ・アルヌールの最初の夫!)が、その上映会にジャン・コクトー、フランソワ・モーリヤック、ノエル・カワードといった名士たちを招待したことも、作品への注目度を上げる点で効果があった。これにより、独立プロの一匹狼であり無名の新人だった映像作家に対する評価が高まったことはいうまでもない。こうして約25年間に及ぶジャン=ピエール・メルヴィルの監督人生が始まったのである。

「人生は、愛と友情と裏切りで成り立っている」

 「人生は3つの要素、つまり、愛と友情と裏切りで成り立っている」というメルヴィルの人生観の基盤にあるのは、レジスタンス時代の体験である。戦争中、ユダヤ人だった彼は自由フランス軍に参加し、レジスタンスの闘士として活動していた。
 友情と裏切りと死が入り乱れる世界で培われ、磨かれた観察眼を以て、メルヴィルは映画を撮り続けた。メイン・テーマは、男の宿命。ほとんどの場合、映画の中心にいるのは男だ。彼らの関係性について、「ホモ・セクシュアル」ならぬ「ホモ・ソーシャル」という言葉を用いて論じられるケースもある。フランスで大ヒットした『仁義』(1970年)でのアラン・ドロン、イヴ・モンタン、ジャン・マリア・ヴォロンテの絆などは「ホモ・ソーシャル」の典型といっても差し支えないだろう。

 メルヴィルはそのまま映像にしても映画的に成立しなさそうな薄い台本に、血と肉を与えて具現化する術を心得ていた。作業にかかる際、彼は口癖のようにこういっていた。「On va dilater.」ーー(台本の中身を)拡張しよう、という意味である。
 その作風は独自の美意識に貫かれているものの、マンネリズムに陥ることはない。表現方法に対して実に意欲的である。『海の沈黙』の台所で朝食を食べるシーンの合成、『恐るべき子供たち』での移動ステージやエレベーターの活用、『いぬ』での9分38秒の長回し......などからも分かるように、彼の映画作りの根本には、常に新たな試みをとりいれようとする自由さ、大胆さがある。しかも、それらのことをこれ見よがしにはやらない。粋なのだ。

ヌーヴェルヴァーグへの影響

 メルヴィルの片腕として活躍したカメラマンはアンリ・ドカ(ドカエ)。メルヴィル映画の半分以上を担当した名手だ。中でも、『恐るべき子供たち』と『賭博師ボブ』(1955年)がヌーヴェルヴァーグの作家たちに与えた衝撃は計り知れず、クロード・シャブロルとルイ・マルは奪い合うようにしてドカに撮影を依頼した。シャブロルが『いとこ同志』でドカと仕事をした時、「あなたが『恐るべき子供たち』でやった通りのことをやってほしい」と指示したというのも、ファンにはおなじみのエピソードである。『恐るべき子供たち』を25回観て台詞もカット割りも暗記したフランソワ・トリュフォーが、『大人は判ってくれない』でタッグを組んだのもドカだった。

 ジャン=リュック・ゴダールもメルヴィル・ファンである。ゴダールのお気に入りは、メルヴィル自ら出演したニューヨーク・ロケ作品『マンハッタンの二人の男』(1958年)。ゴダールらしい選択である。彼はこれを1959年度のベストテンの2位に選んだ(1位はロベール・ブレッソン監督の『スリ』)。センセーションを巻き起こした『勝手にしやがれ』(1959年)にメルヴィルを作家役で出演させていることからも、その愛情のほどがうかがえる。

帽子の美学

 メルヴィルは衣装に関しても「かくあるべし」という明確な信条を持っていた。その一つが、「男」と「ソフト帽」の組み合わせである。『いぬ』(1962年)ではシリアン(ジャン=ポール・ベルモンド)が死ぬ前にソフト帽を被り直したり、『サムライ』(1967年)ではジェフ(アラン・ドロン)が外出する前にまるで儀式のようにソフト帽の角度を決めたりしているが、その姿からは男の美学のようなものが伝わってくる。

 こういうカットを観るたびに私が思い出すのは、ハワード・ホークス監督の『暗黒街の顔役』(1932年)である。ホークスはメルヴィルが愛した63人のアメリカの映画監督の中の1人だった。『暗黒街の顔役』も観ていたに違いない。
 この映画には、帽子を大事に扱うギャングが登場する。トニー・カモンテ(ポール・ムニ)の秘書で、電話応答が苦手なアンジェロ(ヴィンス・バーネット)だ。アンジェロはいわば三枚目役だが、帽子を被る行為に滑稽なほど大きな意味を感じている。その遺伝子がフランスの大スターに受け継がれているような気がして、つい頬が緩んでしまう。とくに、銃で撃たれた主人公が受話器を手に取り、女に電話をかけた後、帽子を被り直してから息絶える『いぬ』のラストは、やはり銃で撃たれて死ぬ寸前に受話器を取り、電話応答を成功させるアンジェロへの密かなオマージュなのではないか、と思われる。