映画 MOVIE

ジャン・ヴィゴ 〜アナーキストの息子〜

2011.04.16
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 ジャン・ヴィゴが29年の短い生涯で撮った映画はわずか4作。全部の長さを合わせても160分に満たない。保存状態も良いとはいえず、フィルムにはキズがたくさんある。にもかかわらず、ヴィゴは今なお映画ファンの間で熱い談義の対象であり続けてきた。フランソワ・トリュフォーをはじめ、その作品から創作の啓示を受けた映画人も多い。一体ヴィゴの何がここまで人を夢中にさせるのか。

 無政府主義者だった父が獄中死、若くして肺結核を発病、自作映画が非難囂々で上映禁止......と、ヴィゴの人生は困難に満ちたものだった。が、映画作りに対する情熱が消えることはなかった。その内なる炎は、彼が人生の最後に全身全霊を傾けて撮った傑作『アタラント号』でついに激しく燃え上がる。この作品に封じ込められた愛と生命のエネルギーの大きさといったら、画面からこぼれんばかりだ。象形文字のように原始的で、力強く、詩的で、純粋。表現に対する荒々しいまでの気迫が伝わってくる。そのひたむきさが、時代を超えて私たちの心をとらえるのだ。こういう作品を観ると、いかに現代の映画が交通整備されすぎているか、計算されすぎているか、ということがよくわかる。

 作品数が4本しかないので全部紹介しておこう。『ニースについて』はニースの街を描いた処女作。生命の迸りを感じさせるスピーディーなカメラワークと大胆な編集技法に驚かされる。『競泳選手ジャン・タリス』は1930年代前半に活躍したフランス水泳界の星、ジャン・タリスの豪快な泳ぎっぷりを収めた記録作品。モノクロに映える水泡が銀河のように美しい。上映禁止となった『新学期 操行ゼロ』は寄宿舎の子供たちがひき起こす騒動を描いた中編。卒業式前日に校長に向かって「クソ野郎」と怒鳴りつけるなど、ナンセンス精神が炸裂している。

 そしてヴィゴ唯一の長編にして遺作、『アタラント号』。ル・アーヴルとセーヌ上流域を行き来する船で生活する新婚の船長夫妻、老水夫、少年水夫。やがて新妻は単調な毎日に飽き、パリで遊びたいあまりこっそり船を抜け出すのだが......という話。変てこな刺青をした老水夫のミシェル・シモンと猫がいい味を出している。
 ちなみに、公開当時このフィルムはゴーモン社によってズタズタにカットされた上、流行歌の「過ぎ行くはしけ(Le chaland qui passe)」を勝手に挿入され、映画タイトルも曲名と同じに変えられた。結果、興行的に大失敗。その後、肝心のオリジナル版は散逸。1940年にタイトルを『アタラント号』に戻し、復元の試みがなされたものの中途半端に終わり、1950年代以降にもシネマテーク・フランセーズによって同じような挑戦が繰り返された。状況が一変するのは、公開から半世紀余りを経てからのこと。イギリスの映画資料館でオリジナル版に近いと思われるネガが発見されたのである。その復元版は1990年のカンヌ映画祭で上映、絶賛された。長女リュス・ヴィゴと映画史家ベルナール・エイゼンシュッツの監修のもと、さらに作業を重ねて完璧に近いものが完成したのは、2001年のことだという。

 私が最初に観たのは1995年に発売されたVHS。これがいつのバージョンなのかは判然としないが、少なくとも「1990年版」でないことは確かだ。おそらく「1940年版」に手を加えたものだろう。フィルムはかなり傷んでいる。「フィルムにはキズがたくさんある」と先述したのは、これを観た上での印象である。ところが、現在DVDで観ることのできるバージョンにはキズがほとんどない。見違えるほど綺麗な仕上がりだ。この作業に関わった心あるスタッフには敬意を払わなければなるまい。

「ゴダールの『勝手にしやがれ』とヴィスコンティの『白夜』が共存し、ロッセリーニとエイゼンシュテインが融合した映画だ」

 この最上級の賛辞は、かつてトリュフォーが『アタラント号』に捧げたものである。しかし彼は1984年に亡くなり、復元版を観ることは出来なかった。もし観ていたら、一体どんな表現で讃えていたのだろう。
(阿部十三)
[ジャン・ヴィゴ略歴]
1905年4月26日パリ生まれ。父はアナーキストのウジェーヌ=ボナヴァンチュール・ド・ヴィゴ(通称ミゲル・アルメレイダ)。1917年ウジェーヌが監獄で死去(拷問による虐殺説あり)。ヴィゴは「ジャン・サレ」と名前を変えて少年時代を過ごす。1925年ソルボンヌ大学文学部に入学。肺結核を病み、サナトリウムで療養中、やはり結核を患っていたエリザヴェート・ロジンスカ(愛称リデュ)と親しくなる。サナトリウムを出たヴィゴは、アヴァンギャルド映画、ドキュメンタリー映画などを鑑賞するシネクラブを組織。クロード・オータン=ララ監督やジャン・ロッズ監督から映画作りも学んだ。1929年リデュと結婚。結婚祝いで手に入れたカメラを使い、『ニースについて』を制作。その後、『競泳選手ジャン・タリス』『新学期 操行ゼロ』『アタラント号』を発表。カメラマンは4本ともボリス・カウフマン。ジガ・ヴェルトフ、ミハイル・カウフマンの弟で、後にハリウッドで『波止場』『十二人の怒れる男』を撮る才人である。『アタラント号』を撮影中、結核が悪化。1934年1月末に撮影終了。ベッドから編集のルイ・シャヴァンスに指示を出し、何とか完成させた。1934年10月5日死去。死後、名声が高まる。その功績を讃え、1951年「ジャン・ヴィゴ賞」が創設。これは主に才能ある若手監督を対象にした賞である。1998年には伝記映画『ヴィゴ』(ジュリアン・テンプル監督)が公開され、話題を呼んだ。
[監督作品]
1930年『ニースについて』/1931年『競泳選手ジャン・タリス』/1933年『新学期 操行ゼロ』/1934年『アタラント号』