映画 MOVIE

五所平之助 〜市井に生きる人々を描く〜

2020.09.12
『マダムと女房』と『伊豆の踊子』

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 五所平之助はロケ先でキャラメルや南京豆、焼き芋を買い込んで、皆と一緒に食べることを好んだという。特に好物だったのが焼き芋で、その理由について、「私は焼いもの庶民的な土の香りが好きで、栗より美味いという、素朴な、心をゆたかにうるおしてくれる母心のような風味は忘れられない」(「焼いもとドーナッツ」)と書いている。

 そんな彼自身の嗜好と、彼の作品の雰囲気は見事にだぶる。五所平之助ほど「庶民派」と呼ぶにふさわしい監督はそうそういない。
 小市民映画を撮った人はたくさんいる。まず松竹の先輩監督、島津保次郎がそうだ。しかし、島津作品にはモダンでハイカラな香りが漂っていた。五所の方は日本的な詩味や叙情味を固守し、市井の人を描いていた感がある。

 日本で初めて本格的なトーキー映画を撮った人でもある。それが『マダムと女房』(1931年)。作家(渡辺篤)とその妻(田中絹代)が繰り広げるホームコメディだ。初のトーキーだけに、「双頭の鷲の下に」、「スピード・ホイ」、「私の青空」などの音楽、ネズミの音、子供の泣き声、飛行機の音、生活音など、多種多様な音を「収集」している。
 庶民派の監督らしく、家族間の日常の呼びかけ声をふんだんにセリフに入れているところが微笑ましい。作家の家には食事が用意された食卓があり、そばにあるカゴには土のついた野菜が入っている。かたや、隣に住む音楽家(小林十九二)とマダム(伊達里子)の家には生活感のかけらもない。作家は音楽家たちの生き方に魅せられるが、結局、生活感に溢れた自分の家に戻る。こういった対比的な見せ方にも、監督の思想がにじんでいる。

 トーキーを撮った後、ヒット作『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933年)を撮るわけだが、こちらはサイレント。前作で2児の母を演じた田中絹代が初々しい踊り子の薫を演じている。これは川端康成の短編小説に手を加えたもので、ストーリーが変わっている。学生(大日方傳)と薫がお互いに抱くのも、淡い恋ではなく、激しい純愛だ。
 薫には兄(小林十九二)がいるのだが、この一見明るくて真面目そうな兄が、誘惑に弱い人物として描かれているのもポイントで、その不安定な情緒の陰翳がストーリーに重みを与えている。薫や兄のちょっとした瞬間の表情を捉えることで、その心理を余すところなく伝える五所お得意の演出法も効果的だ。

『花婿の寝言』と『人生のお荷物』

 『花婿の寝言』(1935年)は、アツアツの新婚夫婦が出てくるコメディ。ある日、夫(長谷川一夫)は、自分が出勤した後、妻(川崎弘子)が家で寝てばかりいることを知り、離婚を決める。妻が朝から寝ていたのは、夫が夜中に延々と寝言を言うからで、不眠症に陥っていたのだ。当時は「女が朝から寝ているのは悪だ」と責めるような時代だったのだろう。そういう意味では、これはただの喜劇ではなく、風刺である。

 『人生のお荷物』(1935年)もコメディ。定年間近の福島省三(斎藤達雄)は、娘の結婚式を終えた夜、妻(吉川満子)に「とにかくホッとした」と話す。しかし、福島家にはまだ一人、9歳の息子(葉山正雄)が残っていた。息子は父親になついていない。こんな奴のためにまだまだ頑張らなければならないのか、と父親はウンザリする。さらに、「女はもともと売り物だ。相当の支度をして、良い所へ縁付ければ、それでまあ資本を下ろしたようなものだ。ところが男の子はそうはいかんぞ」などと放言する。妻は怒り、息子を連れて出て行く。その後、夫は反省し、ほのぼのとしたムードの中、和解に至る。

『朧夜の女』

 『朧夜の女』(1936年)は、五所亭原作の悲哀に満ちたドラマ。スタッフより先にキャスト・クレジットが出てくるのが、まず目をひく。誠一(徳大寺伸)は優秀な学生で、牛鍋屋で働く母(飯田蝶子)と2人で暮らしている。ある日、誠一はバーに勤める照子(飯塚敏子)と深い関係になり、妊娠させる。照子に向かって、「出来るだけの責任は負うよ」と言う誠一だが、女性関係を疑う母親に対して、「僕はあくまで潔白だよ」と嘘をつく。誠一は結局、叔父の文吉(坂本武)に頼り、文吉が照子を妊娠させたことにしてしまう。
 その後、誠一は照子宅を訪ね、「僕はもうこれ以上卑怯な真似はできないんだ。僕は決心した。お袋に一切ぶちまけちゃう。そして駄目なら駄目で良い。どんなに苦労したって、君と2人で生きていくよ」と言うが、結局口先だけ。最後は、照子が妊娠腎臓病を患い、あっけなく世を去る。誠一は葬儀に現れ、文吉に言う。「僕は棺の前で言います、これは僕の女房だって。そうでもしなきゃ堪りません」――しかし文吉に説得されて黙る。ヴァイオリンは哀しげなメロディーを嫋々と奏でるが、まるで泣けない話である。

 およそ現代の倫理観では受け入れがたいが、公開当時も義憤に駆られ、誠一や文吉を罵った観客はいただろう。しかし、そんな人も大人になって同じ道を歩んだかもしれないし、今日の日本人も同じことをしているかもしれない。例えば、『北の国から '92巣立ち』などにも、悪意はないが、自分で責任を取ることができない、誠意が何なのかよく分かってない男たちが出てくる。そういうのを見るにつけ、本質は何も変わっていないと感じるのである。

 五所監督の映画には、女性を陥れようとする悪意に満ちた男性はあまり出てこない。登場するのは、無意識の偽善者である。悪人ではないのだ。だからタチが悪い。妻が朝寝をしていることで「離婚する」と騒ぐ男も、「女はもともと売り物だ」と言う男も、悪人ではないから許される。しかし確実に相手を傷つけているのである。五所監督はその辺の機微を描くのが非常にうまい。
(阿部十三)


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