映画 MOVIE

フリッツ・ラング 〜ドクトル・マブゼと『決壊』〜

2011.07.16
MABUSE-HIRANO-5
 21世紀の今もドクトル・マブゼは生きている。
 先日、文庫化された平野啓一郎の長編『決壊』を読んだが、この前半に〈悪魔〉と称する男がカラオケボックスで中学生の北崎友哉を唆す重要な場面がある。そこで放たれる言葉は、バウム教授に託されたマブゼのメッセージを思い出させる。
 〈悪魔〉は、「純化された殺意として、まったく無私の、匿名の観念として殺人を行う」ことを奨励し、「殺人者は存在せず、ただ、殺意だけが黙々と、まるでシステム障害のように止める術なく殺人を繰り返す」ような世の中を希求する。犯罪の中でも殺人のみに特化している点が乾いた恐怖を生んでいるが、考え方そのものはかなりマブゼ的だ。

 ただ、困ったことに、この長い場面は作品全体のアキレス腱にもなっている。ここでのやりとりが果たして心に厚い壁のある友哉のような中学生にどこまで響くものなのか、というリアリティーには大きな疑問を抱かざるを得ない。これでは狂人の独演会にしか見えないし、実際、友哉は相手の言わんとすることが理解出来ず、当惑し、怒る。にもかかわらず彼は〈悪魔〉の指示通りに動くのだ。〈悪魔〉は催眠術でも使ったのだろうか。

 後半、〈悪魔〉即ち篠原勇治の出自が詳らかにされるところで、篠原を生んだのは悲惨な生い立ちだった、と報道され、それに対するアンチテーゼが提示されないまま、なんとなくそういう結論に収斂されていくところも弱い。平野はドストエフスキーを意識しながら本作を書いたと述べているが、そのわりにはこの篠原に対して思想的補強がなされておらず、荒んだ家庭環境のせいで悪魔的人間になりました、という短絡性が感じられる。

 そもそもこの〈悪魔〉は本当に事件の首謀者なのだろうか。表向きはそういうことになっているが、私たちは「目隠し」をされていないだろうか。少なくとも私は、篠原の遍歴がどんなに酷いものであれ、その内容には空々しさを覚えてしまう。なぜなら真の首謀者は、主人公の沢野崇だと考えているからだ。作者も、そう読み取れる余地を残しながら書いている。

 四章で、待ち合わせ場所に来た友哉の腕を「巨大な鳥の足のように骨張った手」で掴んだ男と、「静かに探るような顔つき」で声をかけてきた男が別人である可能性。バラバラ殺人事件のニュースを「瞳に異様な耀きを灯しながら画面に見入ってい」る崇の反応。五章で、ニュース動画に出てきた崇の目を見た時の友哉の反応。五章の終わりで、崇の口から放たれる意味深なモノローグ。六章で崇と沙希の間に交わされるさらに意味深なダイアローグ。八章で示唆される、崇と篠原が国会図書館で接触していた可能性ーー。

 以上の疑惑の総和は、沢野崇こそ首謀者だと確信させるに足るものだが、それは作中では明言されない。五章での発言(「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった」)と六章での発言(「あいつが死んだのは、単なる偶然じゃない! 適当に選ばれたなんて、俺はこの期に及んで、自分を庇い立ててる! 分かってるんだって、それは! 俺にも責任がある!」)は、読者の心理に波紋を起こすレベルのものでありながら、着地点を与えられていないため、結果的に消化不良を引き起こしている。この作品には「語られていない部分」がありすぎるのだ。「作者の意図」に誘導されて崇にイワン・カラマーゾフのイメージを重ね、「崇は譫妄症だっただけ」とする向きもあるようだが、それではあまりに安直である。

 どんな文学作品にも「語られていない部分」や「隠されている部分」がある。「作者の意図」として発言される言葉は絶対ではない。その見えない部分を私なりに掘り起こして読むと、次のようになる。

 沢野崇は東大を卒業し、国会図書館に勤め、外交防衛関係の調査員として働き、政治家からも信頼を得ているエリートである。イケメンで、女性から人気があり、弁舌さわやかで、鉄壁の知能を備えてもいる。また、子供の頃から人を惹きつける魅力を持っている反面、普通とは「ちょっと違う感じ」があり、周囲の人々を畏怖させ、自分の意のままに動かしてしまうような底知れないところがある。しかし、そんな〈超人〉的な彼が、気恥ずかしくなるほど人間臭い感情に足をすくわれる。理解し合えない弟・良介のことを疎ましいと思う感情である。

 良介はしがないサラリーマンであり、キャリア的には崇の敵でも何でもない。取るに足らない存在なのに、血と愛情を分けた兄弟であるがゆえに無視することが出来ない。自分にはない家庭を弟が築いているのも面白くない。時折、崇は良介の妻・佳枝に有益な「言葉」を与えているが、それも弟への思いやりからではなく、佳枝を支配下に置き、弟一家に対して暗に影響を及ぼしたいという欲望からそうしているだけである。良介はそんな崇の本音を見抜き、不快に思っている。弟からそう思われていることは、崇も承知している。

 目障りな弟を消去したいと考えるのは、弟の秘密の日記「すぅのつぶやき」を覗き見てからである。崇はそこで数倍も優越した存在である自分に対して弟が否定的な感情を持っていることをはっきりと知り、打撃を受ける。とはいえ、日記に書かれていたことは「今まで予感していたこと」である。なぜそこまで弟を消去しようと思うのか、崇にも説明が出来ない。憎んでいるわけではない。むしろ愛している。だけど消去しなければならない。その入り組んだ感情が「なぜだろう?」という不吉な暗示となって良介にも伝播する。

 しかし、国会図書館の利用者である篠原勇治の意思を操作し、北崎友哉までも引っぱり込んで、彼らに恐ろしい犯罪を実行させた後、崇は後悔し、苦悩する。ーーその後、別件逮捕された崇は長く険しい尋問を黙秘で切り抜けるが、その過程で精神に決定的な亀裂を生じさせ、やがて自滅する。

 ここでは平野がインタビューなどで語っている「作者の意図」から離れ、あくまでも「作品論」の領域で読解させてもらった。崇に重ねるイメージは、イワン・カラマーゾフよりドクトル・マブゼの方がふさわしい。

 『ドクトル・マブゼ』から『決壊』の話になったが、90年前でも、現代でも、〈超人〉のように見える存在が実は精神的に脆いという点は共通している。とはいえ、残念なことに、これはフィクションである。現実世界に潜むマブゼはそう簡単には自滅しない。メディアぐるみの印象操作によって洗脳を行おうとする者、ネットを使って「不安」や「悪意」を蔓延させる者、無目的に悪い噂を流す者は数えきれないほど大勢いる。マブゼたちの世界とネットでつながっている私たちは、彼らに踊らされないよう、情報や意見を冷静に吟味出来るだけの見識を養わなくてはならない。

 さて、このまま『ニーベルンゲン』『メトロポリス』『スピオーネ』『M』『暗黒街の弾痕』『死刑執行人もまた死す』などについて論じていたら収拾がつかなくなるので、この辺で筆を擱く。私自身にとって重要なのは、『ドクトル・マブゼ』よりむしろそれらの作品なので、いずれ折を見て、少なくとも『メトロポリス』と『スピオーネ』くらいは取り上げたいと思う。
(阿部十三)


【関連サイト】
フリッツ・ラング(DVD)
平野啓一郎『決壊』(書籍)
[フリッツ・ラング プロフィール]
1890年12月5日、オーストリアのウィーン生まれ。1919年『Halbblut』で監督デビュー。1921年テア・フォン・ハルボウの脚本による『死滅の谷』で成功を収め、1922年『ドクトル・マブゼ』で地位を確立。ハルボウとのコンビで『メトロポリス』『スピオーネ』『M』などの傑作を次々と発表。母親がユダヤ人だったラングは、1933年ナチスが台頭すると、ナチスに共鳴していたハルボウと離婚し、愛人リリー・ラテと共にドイツを離れる。ナチスはドイツ映画界最高の地位をラングに提供しようとしていたらしいが、真相は分からない(これには諸説あり、ラングの方からナチスにすり寄っていたのではないか、と見る研究者もいる)。フランスを経てアメリカに移ってからも実力を発揮し続け、『激怒』『暗黒街の弾痕』などで気を吐いた。しかし完璧主義の性格が災いして50年代後半から映画界を干され、仕事が激減。遺作は1960年にドイツで撮った『怪人マブゼ博士』。1963年ジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』に出演。1976年8月2日、ロサンゼルスで死去。
[主な監督作品]
1919年『Halbblut』『蜘蛛』/1921年『死滅の谷』(『死神の谷』とも)/1922年『ドクトル・マブゼ』/1924年『ジークフリート/クリームヒルドの復讐(ニーベルンゲン2部作)』/1927年『メトロポリス』/1928年『スピオーネ』『月世界の女』/1931年『M』/1933年『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』/1936年『激怒』/1937年『暗黒街の弾痕』/1938年『真人間』/1940年『地獄への逆襲』/1941年『西部魂』『マン・ハント』/1943年『死刑執行人もまた死す』/1944年『恐怖省』『飾窓の女』/1946年『外套と短剣』/1952年『無頼の谷』/1953年『復讐は俺に任せろ』/1954年『ムーンフリート』/1956年『口紅殺人事件』/1960年『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の千の眼)』