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黒澤明 〜『七人の侍』私論〜

2015.06.11
組織を描いた作品として

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 黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)は、「日本映画史上最高の傑作は何か」という問いに対する答えのひとつとして定着している。極端に高い評価が世代を超えて広範囲に存在するのは、作品自体が偉大であるからにほかならない。しかし、その根拠を挙げる際、撮影現場の苦労話や海外の映画への影響力を力説しても、作品とはまた別の権威性しか伝わらないだろう。『七人の侍』が偉大なのは、ヴェネチアで賞を獲ったからでも、ハリウッドでリメイクされたからでもなく、時代劇の定石を崩したからでも、厖大な時間とお金が費やされたからでもなく、今観ても映画として純粋に面白いからだ。これが大前提である。

 『七人の侍』は豊臣秀吉の時代、刀狩が行われる直前の頃の物語だ。とある村で、百姓たちが「野伏せり」の襲来におびえている。彼らは水車小屋に住む長老(高堂国典)に意見を乞い、その結果、米を腹いっぱい食わせることを条件に「腹のへった侍」を雇うことに決める。

 百姓が侍を雇う。この設定自体は斬新だが、実際のところは、賢者の風格をたたえた勘兵衛(志村喬)が百姓に同情したことで、勘兵衛を慕う若き勝四郎(木村功)、その人柄に惚れた五郎兵衛(稲葉義男)、かつて家来だった七郎次(加東大介)が集まるという流れになっている。正直者で人の良い平八(千秋実)と無口な剣客の久蔵(宮口精二)はそこに属さないが、米を食うために協力したという感じではない。もう一人、勘兵衛に認められたい気持ちと荒っぽい野生の情熱が混淆している百姓出身の菊千代(三船敏郎)はいわばはみ出し者と言える。

 一般的に、黒澤映画には脂身たっぷりのイメージがあるが、実際に観ると素朴な味わいがあり、しかも洗練されている。さまざまな要素が投入されていながら、何が言いたいのか分からなくなるような混濁の様相を呈することもない。私見では、『七人の侍』はひとつの組織を描いた作品としていつの時代にも通じる普遍性を持っている。7人の中で司令塔になり、皆をまとめるのは勘兵衛だ。彼は負け戦を重ねてきた落魄の身だが、自然な流れでリーダーになり、指揮を執る。そして、このリーダーがいることで侍たちはひとつの組織になる。もっと言えば、世にある組織の縮図が形成される。勘兵衛に従順な七郎次、五郎兵衛、勝四郎。ろくに人を斬ったこともなく、百姓たちに「いいか、敵は怖い......誰だって怖い......しかしな......むこうだってこっちが怖いんだ」と穿ったことを言う平八。ストイックで無愛想だが、余計なことを言わずに驚異的な働きを見せる久蔵。何かと賑やかで、(愛想のよい平八とは異なる形で)村人と侍をつなぐ役割を演じ、時に勘兵衛の命令に背きながらも、活躍の場が多い菊千代。このようにして、組織の人であることがいかにも似合う者、そうとも言えない者が生まれる。

 7人の侍の中で、観る者に強烈なインパクトを与えるのは、勘兵衛の思惑を超えた行動をする2人の人物だ。静と動の両極端の軸にあって大きな仕事をする久蔵と菊千代である。彼らは砦と化した村の中でも外でも活躍するが、最後の激戦で落命する。黒澤が人物設定の際に「なんでもエンジョイする才能」と記した平八も、「実質的に副将の重みがある」と記した参謀的な五郎兵衛もすでにこの世にない。平八は野武士の根城の前で撃たれ、五郎兵衛は砦から出たところで撃たれる。生き残るのは勘兵衛、七郎次、勝四郎だけだ。

 勘兵衛と七郎次は、砦の中の人である。勘兵衛は砦から少し出たことがあるにすぎず、七郎次は出たことがない。勝四郎は砦から出ても危険な真似はしない。組織の中で残るべくして残った人たちという印象だ。ただし、勝四郎の場合、単純に従順とは言い切れないところがある。彼は村娘の志乃(津島恵子)と性的関係を持ち、勘兵衛の想定からはみ出る。勘兵衛を恐れるような目をするかと思えば、その前で居眠りをしたりもする。何より憧れの対象が、途中から久蔵に変わっている。まだ半人前でほとんど使いものにならず、己を主張することもできない状態だが、未来において変化する存在とみてよいだろう。

生き残った侍

 勘兵衛のことを理想的な指導者と評する人もいるが、黒澤はこの人物をそのように描いているわけではない。例えば、こういう場面がある。侍たちが村を訪れて間もない頃、百姓たちがひそかに落ち武者狩りをして鎧や武器を隠し持っていることが明らかになる。侍たちは怒りを覚え、冷静な久蔵でさえ百姓たちに殺意を抱く。百姓の卑しさを知る菊千代は、「お前達......一体百姓を何だと思ってたんだ......仏様だとでも思ってたのかっ」と侍たちを挑発し、「百姓ってのはな......けちんぼで、ずるくて、泣虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだァ!!」と感情的に喚く。すると、勘兵衛はそれに対して「貴様、百姓の生まれだな?」と菊千代に言う。

 私は最初にこれを観た時、分かりきったことを言う勘兵衛に反感を抱いた。しかし、その反感はこちらが完璧なリーダー像を思い描いているから生じるのである。知力と風格が7人の中で際立っていることは間違いないが、勘兵衛は完璧でも、天才でもない。

 4人の侍の死はすべて鉄砲によってもたらされる。野武士の側には鉄砲の名手がいるのだ。そういうことは事前に想定されない。せっかく手に入れた2梃の鉄砲も使わない。おそらく弾が無かったのだろうが、あったとしても使ったかどうか分からない。勘兵衛はいつまでも刀と弓矢で戦う古いタイプの戦士である。いわば過去の人なのだ。野武士の鉄砲を奪いに行った久蔵が戻ってくる場面で、勝四郎に聞き取ることのできた足音が勘兵衛には聞こえなかったところも、衰えを感じさせる。自分でも、勝四郎と出会う場面で、このように認めている。

「儂(わし)は別に特別の人間じゃない。ただ、合戦には随分出たが、それもみんな敗戦(まけいくさ)ばかりでな。要するに、ただそれだけの男だ。そんな不運な男について来るのはやめた方がいい」

 こうした人物像を踏まえると、ラストの有名な台詞を咀嚼することができる。

「この戦......やはり敗戦だったな。いや......勝ったのは......あの百姓達だ......儂達ではない」

 村人は笛を吹き、太鼓を叩き、陽気に歌い、そのリズムに合わせて田植えにいそしんでいる。野武士との戦いで死者を出しながら、早くもそれを乗り越えようとして、これからの日々、これからの生活に向かい、大地を踏みしめている。生き残った3人の侍はというと、その様子を微笑ましくどころか硬い表情で眺めている。侍たちには気持ちを切り替えることができない。勘兵衛の台詞は、出会った時とはまるで別人のような村人のバイタリティを目の当たりにし、己の存在のむなしさを思い知ったところから出てきたものである。生き残った侍の背景には4人の墓がある。4人の死は勘兵衛たちの背に重くのしかかっている。村人に感謝をもって見送られることもない侍たちが進む道は、いわば過去を、死者を引きずる道であり、明日に生きる村人とは逆の方角にあるのだ。

侍の精神性

 厳密に言えば、この映画には明確な身分の差はほとんど存在しない。それは百姓の出でありながら侍だと言い張る菊千代の存在が象徴しているが、落ち武者になって竹槍で追われた経験がある(と推測される)七郎次たちにもあてはまることだ。彼らと野武士を隔てる境目は、誇りや良心の点では大きい。しかし、境遇次第ではどちらに転んでもおかしくない時代だったのである。

 そんな中、「侍が百姓に雇われて野武士と戦う」という図式が生まれる。ここで七人の侍を正義の侍たらしめているのは、もはや身分の裏付けでも、「侍」の語源でも、物理的な何物でもない。侍としての貴い精神性だけである。黒澤が彼らに鉄砲を使わせず、鉄砲で死なせたのも、勘兵衛を古いタイプの戦士として創造したのも、安易な手を使わず困難に立ち向かう侍の精神を強調するためだ。それを単に観念的なものとせず、客観的な実在としてフィルムに焼き付けることに黒澤は情熱を注いだのである。誰が正しいのか分からなくなるような『羅生門』(1950年)の論理はここにはない。社会党の書記長一行が『七人の侍』の撮影現場を見学しに来て、その秘書が「野武士には野武士の立場もある」と言ったとき、黒澤が激昂したのも当然である。

 戦前にもマキノ正博監督の『浪人街』(1928年〜1929年)という傑作があるが、黒澤監督の『七人の侍』以上に侍のイメージを拡散させた作品はないだろう。「サムライ」という言葉は、今ではもっぱら精神性のみ抽出され、私利私欲を超越した誇り高きプロフェッショナルといった意味で使われている。こうした用法がここまで広まり、世界的にもポピュラーになったのは、『七人の侍』の解釈の仕方によるところが大きかったのではないか。
(阿部十三)


[参考文献]
黒澤 明 『全集 黒澤 明 第四巻』(岩波書店 1988年2月)
浜野保樹編・解説 『大系 黒澤 明 第2巻』(講談社 2009年12月)
黒澤 明『黒澤 明 「七人の侍」 創作ノート』(文藝春秋 2010年8月)
黒澤 明・野上照代 『別冊「七人の侍」 創作ノート 解説』(文藝春秋 2010年8月)



【関連サイト】
黒澤明
[黒澤明略歴]
1910年3月23日、東京生まれ。兄は無声映画の弁士、須田貞明。画家を志していたが、映画界へ進み、山本嘉次郎監督のもとで研鑽を積む。1943年に『姿三四郎』で監督デビュー。1951年、『羅生門』がヴェネチア国際映画祭金獅子賞とアカデミー名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞。名監督として世界的に知られるようになる。三船敏郎とは1948年の『醉いどれ天使』から1965年の『赤ひげ』までコンビを組んだ。以後10年間は、ハリウッドでの『暴走機関車』の企画頓挫、日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の演出降板、自殺未遂事件など苦しい出来事が続く。1975年、ソ連を舞台にした『デルス・ウザーラ』で復帰し、アカデミー外国語映画賞を受賞。1980年には『影武者』がカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞。1990年、アカデミー名誉賞を受賞。1998年9月6日死去。
[監督作品]
1943年『姿三四郎』/1944年『一番美しく』/1945年『續姿三四郎』『虎の尾を踏む男達』/1946年『わが青春に悔なし』/1947年『素晴らしき日曜日』/1948年『醉いどれ天使』/1949年『静かなる決闘』『野良犬』/1950年『醜聞』『羅生門』/1951年『白痴』/1952年『生きる』/1954年『七人の侍』/1955年『生きものの記録』/1957年『蜘蛛巣城』『どん底』/1958年『隠し砦の三悪人』/1960年『悪い奴ほどよく眠る』/1961年『用心棒』/1962年『椿三十郎』/1963年『天国と地獄』/1965年『赤ひげ』/1970年『どですかでん』/1975年『デルス・ウザーラ』/1980年『影武者』/1985年『乱』/1990年『夢』/1991年『八月の狂詩曲』/1993年『まあだだよ』