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アルフレッド・ヒッチコック 〜バーグマン作品について〜

2016.11.11
恋愛心理を重んじたロマンティック・サスペンス

 1940年代にアルフレッド・ヒッチコックはイングリッド・バーグマンをヒロインに迎え、『白い恐怖』(1945年)、『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)の3作を撮った。『白い恐怖』は縦縞模様に恐怖を抱く記憶喪失者と女性精神科医の関係、『汚名』はナチのスパイの娘とFBI捜査官の関係、『山羊座のもとに』は過去を持つ令嬢と馬丁の関係が一応の軸となっており、いずれもヒロインが相手の男に対して一途な点で共通している。

 この3作は、事件や陰謀の解明を志向しているだけでなく、恋愛心理の微妙な陰翳と男女関係の成り行きを見せることも強く志向している。ラブロマンスというものが、事件解決までのスリリングな道筋に彩りを添える刺身のつまでなく、カロリーの高いメインディッシュの一つとして扱われているのだ。かくして「サスペンス」のパートと「ロマンティック」のパートの両方がきっちりと描破されることになる。

 もともとヒッチコックはメロドラマから出発した監督であり、最初のサスペンス映画『下宿人』(1927年)でもラブロマンスがそれなりに重視されている。マデリーン・キャロルやジョーン・フォンテインをヒロインに据えた作品にもロマンティックな雰囲気がある。甘い音楽も当時からよく使われている。ただ、これらではまだ恐怖、疑惑の要素が大きな割合を占めている。サスペンスの中で真摯な恋愛が声高に主張をするのは、バーグマン主演作からだ。

 『白い恐怖』より前のヒッチコックのサスペンス映画を振り返ると、バーグマンほど濃厚な恋愛の匂いを放つヒロインが少ないことに気付かされる。おそらくヒッチコックはこの美しいブロンドのオスカー女優を得たことで、「ロマンティック」のパートに存分に重きを置こうと考えたのだろう。実際、ヒッチコックはバーグマンに対して特別な感情を抱いていたというのが今日の定説であり、それは3作のヒロインがこの上なく美しく撮られていることからも、察しが付く。こうしたロマンティック・ヒロインを重んじる傾向は、『白い恐怖』と同じく深層心理ネタを俎上にのせた『マーニー』(1964年)まで断続的に続くことになる。

『白い恐怖』の場合

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 『白い恐怖』は、記憶喪失と罪責感により情緒不安定になっている殺人容疑者ジョン(グレゴリー・ペック)のために、彼の無実を信じる医師コンスタンス(イングリッド・バーグマン)が真相解明に乗り出す話である。一般的には精神分析をテーマにしたニューロティックな映画とされているが、初心な女医が愛に目覚め、一人の女として男を守る戦いに挑むプロセスを描いたメロドラマと言う方が適切だろう。

 この中で私が注目したいのは、ジョンとコンスタンスのロマンスではなく、精神分析の権威であり、コンスタンスの恩師であるブルロフ(マイケル・チェーホフ)の心理である。独り暮らしをしている老学者は、精神的に危険な状態にあるジョンに入れ込んではいけないとたしなめるが、コンスタンスは聞き入れない。ブルロフは苛立ちのあまり、パイプに火をつける際マッチを散らかす。そしてジョンを抱擁するコンスタンスから目を背ける。ブルロフはコンスタンスに恋しているわけではないだろうが、己の分身のように思っている。それが「彼女の夫は私の夫みたいなものだ」の台詞にあらわれている。結局、心ならずもブルロフは、「分身」が自分から離れ去り、素性の知れない男との恋愛に走るのを見守る立場にとどまる。

 ヒッチコックの映画術については語り尽くされた感があるので、細かいことは言わないが、不気味な影を作る照明の魔術の冴えは相変わらずだし、床に落ちている白い封筒(ジョンからの伝言)がコンスタンスの手に渡るまでの緊張感もさすがだ。真犯人が拳銃をコンスタンスに向けるカット(拳銃が火を噴く瞬間のみカラー処理されている)をはじめとする一人称カメラも面白い。

『汚名』の場合

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 『汚名』で繰り広げられるロマンスはより複雑である。主人公はアリシア(イングリッド・バーグマン)。有罪判決を受けたナチのスパイの娘だが、彼女自身は父親とは縁を切っている。FBI捜査官デブリン(ケイリー・グラント)はそんな彼女と恋に落ちる。そこへ上から指令が下る。アリシアを父親の友人だったセバスチャン(クロード・レインズ)に近づけ、交際させ、セバスチャンたちが南米で企んでいるらしい陰謀を探らせろというのである。ここでデブリンはアリシアに決断を委ねる。そうやって恋人が「他の男と寝る」任務を引き受けるかどうか試すのだ。その心理は非常に屈折している。

 セバスチャンは以前アリシアに恋していたことがあるので、2人はすぐに交際することになる。デブリンは感情を抑えるが、アリシアへの愛は断ち難い。アリシアもデブリンを愛している。しかし言葉と心はすれ違うばかり。他方、セバスチャンはアリシアに付きまとっているハンサムなデブリン(FBIだとは知らない)に嫉妬し、アリシアを独占すべく結婚を申し込む。陰謀を暴く話が進行する中、3人はずぶずぶと愛の地獄にはまりこんでゆくのである。

 登場人物の視線の交錯などヒッチコックらしく細かく計算されたそのカット割りは、究極の域に達した感がある。秘密が隠されているセバスチャン邸のワインセラーの鍵をパーティー中にデブリンに渡すシーン、そのワインセラーでのスリリングなシーン、デブリンがアリシアを救い出すラストの階段のシーンは、何度観ても素晴らしい。序盤の酔っぱらったアリシアと終盤の毒を飲まされたアリシアをリンクさせて全体の統一感を出す構成にも隙がない。むろん、検閲の裏をかいた長回しのキスシーンも見所の一つだ。デブリンが置き忘れたシャンペン・ボトルや中身を入れ替えたワイン・ボトルは男根の隠喩だろう。ボトルの中身を入れ替えるというのは、すなわちデブリンとセバスチャンの入れ替えを示している。

『山羊座のもとに』の場合

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 『山羊座のもとに』は、1830年代のオーストラリアを舞台にしたコスチューム劇。頼りない奥様と専制的な女中が出てくるところは『レベッカ』(1940年)と似ている。ワンシーンで繋ぎ、物語の時間の経過を上映時間と合わせた『ロープ』(1948年)の余波か、凝った長回しがたびたび使われているのも印象的だ。そのせいでバーグマンはストレスを感じ、ヒッチコックとの信頼関係に亀裂が入りかけたらしい。

 アイルランドの富豪の令嬢だったヘンリエッタ(イングリッド・バーグマン)は、元馬丁で前科者でもある成金のフラスキー(ジョゼフ・コットン)と結婚し、オーストラリアで不幸な生活を続けている。彼女は精神を病み、女中に指示を与えることすらできない。そこへ総督の従弟アデア(マイケル・ワイルディング)がやって来る。アデアはアイルランド時代のヘンリエッタを知る若者で、彼女のことを励ますが、やがて恋情を隠せなくなる。さらに、フラスキーに想いを寄せる女中ミリー(マーガレット・レイトン)が絡み、ヘンリエッタを破滅させようと企む。こうやって書くと、『灰色の男』(1943年)ばりの姦通劇と思われそうだが、そうではなく、ヘンリエッタとフラスキーの夫婦は強いきずなで結ばれている。

 にもかかわらず、アデアがフラスキーのいない所でヘンリエッタにキスしたり、ベタベタしているため、純愛ものなのか、不倫ものなのか、なかなか焦点が定まらず、観る者を困惑させる。そのせいで殺人事件に関する衝撃的な告白の内容がいまひとつ重みを持たない。ハラハラドキドキのサスペンスを期待すると肩すかしを食らうし、ロマンティックなムードもどこか散漫である。この雰囲気の掴みにくさはいかんともしがたい。

ヒッチコックのミューズ

 ヒッチコックが好意的に描いた『白い恐怖』のブルロフ、『汚名』のデブリンとセバスチャン、『山羊座のもとに』のフラスキーのポジションは、先生、恋人と偽りの夫、夫という風に移行している。その発展的移行に伴い、彼らが味わう対女性の苦痛も強度を増している。これはそのままヒッチコックのバーグマンに対する叶わぬ恋の置き換えとみなすよりも、仮想的恋愛の進行を想像上でシミュレートし、作品に昇華させたものとみるべきである。端的に言えば、この時期、バーグマンはヒッチコックのミューズであった。2人の間に信頼感、緊張感、距離感があったからこそ、『汚名』のような傑作ができあがり、ヒッチコック流のロマンティック・サスペンスが確立されたのだ。己の手の届かないヒロインを得て明瞭になったこのスタイルが、暴君的な愛の対象とされたティッピ・ヘドレンと共に終焉を迎えたのは象徴的である。
(阿部十三)


【関連サイト】
Alfred Hitchcock
Alfred Hitchcock(Blu-ray)
[アルフレッド・ヒッチコック略歴]
1899年8月13日、ロンドン郊外レインストーン生まれ。電信会社で働きながら絵画を学び、イズリントン撮影所で字幕書きを担当。助監督を経て、1925年に『快楽の園』でデビューを飾る。トーキー映画の到来と共に監督業も軌道に乗り、『暗殺者の家』『三十九夜』『サボタージュ』『バルカン超特急』を発表。渡米後、『レベッカ』でアカデミー作品賞を受賞。1960年代初頭まで精力的に傑作を撮り続け、『めまい』『北北西に進路をとれ』『サイコ』『鳥』でピークを迎える(これらの作品と同時期、テレビ番組『ヒッチコック劇場』の監修も務めていた)。その後、一時精彩を欠くものの1970年代に『フレンジー』で復活。1980年4月29日ベル・エアの自宅で死去。「サスペンスの神様」の異名を持つ。フランソワ・トリュフォーによる超時間のインタビュー集『映画術』は必読の書。1926年に結婚した妻アルマは、『殺人!』『断崖』『疑惑の影』などの脚本家でもある。
[主な監督作品]
1925年『快楽の園』/1927年『下宿人』/1929年『ゆすり』/1930年『殺人!』/1932年『第十七番』/1934年『暗殺者の家』/1935年『三十九夜』/1936年『間諜最後の日』『サボタージュ』/1937年『第3逃亡者』/1938年『バルカン超特急』/1940年『レベッカ』『海外特派員』/1941年『断崖』/1942年『逃走迷路』/1943年『疑惑の影』/1944年『救命艇』/1945年『白い恐怖』/1946年『汚名』/1947年『パラダイン夫人の恋』/1948年『ロープ』/1949年『山羊座のもとに』/1950年『舞台恐怖症』/1951年『見知らぬ乗客』/1953年『私は告白する』/1954年『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』/1955年『ハリーの災難』/1956年『知りすぎていた男』/1956年『間違えられた男』/1958年『めまい』/1959年『北北西に進路をとれ』/1960年『サイコ』/1963年『鳥』/1964年『マーニー』/1966年『引き裂かれたカーテン』/1969年『トパーズ』/1972年『フレンジー』/1976年『ファミリー・プロット』