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森一生 〜大映の偉大な職人監督〜

2021.11.17
永田雅一と共に

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 森一生は長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎の主演作を数多く撮った大映の職人監督である。その歩みは常に名物プロデューサー永田雅一と共にあり、まず日活太秦撮影所に入り、その後、第一映画社、新興キネマを経て、大映で活躍した。毎回、永田ラッパ(渾名)は特に説明もなく、「おい、これや。これを何日までにやれ」と言って脚本を森に渡し、後は任せていたという。そうして生まれた映画は129本。その中には、市川右太衛門の『大村益次郎』(1942年)があり、長谷川一夫の『銭形平次』(1951年)があり、市川雷蔵の『薄桜記』(1959年)と『ある殺し屋』(1967年)があり、勝新太郎の『不知火檢校』(1960年)がある。どれも日本映画のファンにはおなじみのタイトルだが、監督が森であることを知っている人は少ない。

 森一生が映画界において果たした役割は大きい。戦後の「母物映画」の先駆けとなる『山猫令嬢』(1948年)を撮り、三益愛子を母物映画のアイコンにしたのは森監督である。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『地獄門』(1953年)では、衣笠貞之助と共同監督を務めながら、クレジットされることを辞退している。その理由について、「やっぱり大作なんで、監督は一人の方がいいと思いましてね」と『森一生 映画旅』で語っているが、自分が目立つことへの遠慮もあったのかもしれない。

 黒澤明が脚本を書いた『決闘鍵屋の辻』(1952年)で、三船敏郎に初めてリアルな立回りをやらせ、その後の黒澤アクション時代劇への流れを作ったのも森監督である。元宝塚のスターを起用した『婦人警察官』(1947年)を大ヒットさせ、当時まだ登場して間もない「婦警」を世に印象付けたこともある。『花の講道館』(1953年)でミス日本初代グランプリの山本富士子をデビューさせたのもこの人だ。こういった例を挙げていくとキリがない。

雷蔵と勝新

 森監督の最大の功績は、雷蔵と30本、勝新と23本でタッグを組み、2人の魅力を引き出したことだろう。その絆から生まれた2大傑作が、『薄桜記』と『不知火檢校』だ。どちらも大映に勢いがあった頃に撮られた作品である。

 『薄桜記』は「高田馬場の決闘」と「忠臣蔵」の外伝で、全くもって救いのない悲劇。道場を破門され、愛妻を犯され、片腕にされ、銃で撃たれた丹下典膳(市川雷蔵)の絶望的な戦いが描かれる。静かに雪の降る中、繰り広げられる殺陣は、胸をえぐるほど美しい。歌舞伎の所作を取り入れていて、格調も高い。市川雷蔵という不世出の役者の悲壮美が、極限まで引き出されている。森監督の話によると、雷蔵は撮影現場で「うん、俺はここで死ねる。よし!」という勢いで演じていたそうだが、まさに迫真の死の演技である。

 『不知火檢校』は幼い頃から奸智に長けていた杉の市(勝新太郎)が、大人になって殺す犯すの悪の限りを尽くし、検校の地位にまで上りつめるという話。盲目であることを弱みに見せておきながら、金のために人を騙し、簡単に人を殺し、欲に任せておきみ(山本弘子)と浪江(中村玉緒)を犯して自殺させる怪物ぶりに、開いた口が塞がらない。それまで白塗りの二枚目だった勝新は、ここで「悪」の演技に開眼し、路線を変えることになる。彼にとってはターニングポイントになった作品だ。これがなければ1962年から始まる『座頭市』シリーズもなかっただろう。

 1950年代後半から1960年代にかけて大映で時代劇を手がけた代表的監督といえば、森一生、三隅研次、田中徳三、池広一夫、安田公義である。最も監督としてキャリアを積んでいたのは森だが、プライドの高いベテランのように仕事を選ぶことはなかった。ほかの監督がにべもなく断ったものでも、後輩が1作目を撮ったシリーズの続編でも、会社から言われれば何でも撮った。シリーズもので、唯一、全作手がけたのは現代劇の『ある殺し屋』。しかし、これは2作で終わった。雷蔵と森の希望を会社側が受け入れなかったのだ。大映倒産の要因には、テレビの台頭だけでなく、こういった失策の繰り返しもあったのである。

「見えたら負け」の技

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 『薄桜記』と『不知火檢校』には印象的なカットがある。主人公の命運が尽きたところで、カメラが真上から引きで映す俯瞰ショットだ。前者では丹下典膳が倒れながら片手で刀を振り回し、最後のあがきを見せる。後者では罪が露見し、民衆から石を投げられた検校が倒れかかっている。終わりは見えているが、まだ死んではいない。カメラは静かにその様子を見据えるだけ。人間という孤独で小さな生き物の命の動き、営みを捉えるようなショットだ。森監督のほかの作品を観ても、この俯瞰ショットは多用されている。こういう俯瞰志向は、監督が少年時代に観て感銘を受けた『雄呂血』(1925年)から生まれたと考えるのは穿ち過ぎだろうか。

 『ある殺し屋』では主人公の塩沢が元特攻隊員であることがさらりと語られる。写真と音のみで若き日に起こった悲劇を余さず伝える見事な演出だ。森監督はこういった技を、これみよがしには使わない。本人が「(技法は)隠してます。見えたら負けだと思うんですね」と語っているように、うっかりすると見過ごしてしまうほど、さりげなく使う。モンタージュの技法も職人芸である。森はワンカットで俳優にしつこい演技をさせることを好まず、「俳優さんが芝居できなんだら、できんでいい。俺はつなぎで画にするから、どうにでもなるわ」という方針で作っていた。その根底には、伊丹万作監督の『赤西蠣太』のように「簡単でさらっとしてて人を引きつける」ものを撮りたいという気持ちがあったらしい。

 とはいえ、俳優の演技がうまければそれに越したことはない。場合によっては、誰も注意できないような超大物に演技指導をすることもあった。『地獄門』の時の長谷川一夫である。撮影現場でダメ出しをされた長谷川は、「生まれて初めて、ええこと言われた」と感動していたという。森監督には女優の好みはあまりなかったようで、雷蔵や勝新に相当する相棒格の女優は存在しない。『不知火檢校』で浪江を演じた中村玉緒は素晴らしかったが、これは勝新と相性が良かったのだろう。

監督人生を全うした

 職人監督には機械的に映画を撮りまくる人というイメージがあるが、森監督は京都帝国大学で美学を学んだ理論派で、細部までこだわって撮っていた。ただ、理屈が前面に出てくる演出を好まず、己の技法を売り物にして処世する術を持たず、大映でひたすらプログラム・ピクチャーを自分の納得の行く形で作ることに力を注いでいた。

 無論、自ら企画したことはある。インテリらしく現代劇に意欲を抱き、『ここに泉あり』や『自分の穴の中で』の映画化を企画した時は、永田ラッパに「それはお前の色と違う」と言われ、撮らせてもらえなかった。限られた監督によるローテーションでシリーズ作品を回していた大映において、森の役割は固定化されていたのである。

 後に森監督は、自分が撮りたいものを撮っていたら「いまごろ大巨匠でしょう」と冗談めかして語っている。内心思うところはあっただろう。ただ、大映倒産後もかつての仲間たちとの縁でテレビドラマを演出し続け、老境に達してもビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』などに刺激を受け、新作への情熱を抱いていた監督人生は、幸福なものだったと言える。
(阿部十三)


【関連サイト】
森一生
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[森一生 略歴]
1911年1月15日、愛媛県生まれ。京都帝国大学美学科を経て、1933年に日活太秦撮影所に入社。永田雅一に追随して第一映画社、新興キネマへ。1936年、『仇討膝栗毛』で監督デビュー。出征・復員後は大映の監督として『婦人警察官』、『山猫令嬢』をヒットさせ、1950年代からは長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎の主演作を多く手掛けた。大映倒産後もテレビドラマの方で活躍を続け、1989年6月29日に亡くなった。
[主な監督作品]
1936年『仇討膝栗毛』/1938年『怪猫 赤壁大明神』/1940年『親子鳥』/1942年『大村益次郎』『大阪町人』『三代の盃』/1947年『婦人警察官』/1948年『山猫令嬢』/1949年『わたしの名は情婦』/1951年『銭形平次』/1952年『決闘鍵屋の辻』/1953年『花の講道館』『刺青殺人事件』/1954年『酔いどれ二刀流』/1955年『藤十郎の恋』/1957年『朱雀門』『敵中横断三千里』/1959年『薄桜記』/1960年『濡れ髪喧嘩旅』『不知火檢校』『忠直卿行状記』/1961年『大菩薩峠・完結編』/1962年『化身』『江戸へ百七十里』『続座頭市物語』/1963年『悪名波止場』『新忍びの者』/1965年『座頭市逆手斬り』/1966年『兵隊やくざ・脱獄』『陸軍中野学校・雲一号指令』/1967年『ある殺し屋』『ある殺し屋の鍵』/1968年『秘蔵おんな蔵』/1970年『忍びの衆』『皆殺しのスキャット』