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  •  沖縄に伝わる古い歌謡「オモロ」を集めた『おもろさうし』を読んでいると、言霊の力について考えたくなる。『おもろさうし』は全22巻の歌謡集で、第1巻は1531年、第22巻は1623年頃に成立したと言われている。その歌数は1554首、重複しているものを除くと1248首である。 言霊といえば、まず言及すべきは『万葉集』だろう。巻十三には、言霊の二文字が入った有名な...

    [続きを読む](2020.02.16)
  •  春になると家持の歌を読みたくなり、本棚から『万葉集』を取り出す。私が好きなのは、巻第十九に収められた三首だ。そのうち二首は天平勝宝5年(753年)の2月23日(太陽暦4月5日)に、一首は2月25日(太陽暦4月7日)に作られている。  二十三日に、興に依りて作る歌二首 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも(春の野に霞がたなびいていて物悲...

    [続きを読む](2019.03.17)
  •  山上憶良の歌で最も広く知られているのは、教科書にも載っているこの一首だろう。 山上憶良臣の宴を罷る歌一首憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 吾(あ)を待つらむそ(私憶良はもう失礼いたしましょう。子どもが泣いているでしょうし、その母親も私の帰りを待っていることでしょうから) 言うまでもなく、万葉集には名歌が多数収録されている。柿本人麻呂、山部赤...

    [続きを読む](2018.11.17)
  •  歌を詠むことは昔の貴族のたしなみであったという話を学校の授業で何度か聞かされた記憶はあるが、なぜ重んじられていたのか、説明された記憶はない。教科書に載っている種々の和歌を覚えるのは、テストのための作業、暗記作業以外の何物でもなく、貴族でも何でもない私にはただの苦痛であった。 それが変わったのは、大学で哲学の講義を受けていた時。西洋の哲学者について話を聞かさ...

    [続きを読む](2017.12.23)
  •  『万葉集』には定訓を持たない歌がある。その中で最も有名な難訓歌が、額田王の九番歌だ。伊丹末雄の『万葉集難訓歌考』に「古来あまりにも名高い難訓歌で、千年に及ぶ幾多の学者の精密真摯なる研究にもかかわらず、今なお依然として明確には読み解けない」とあるように、大きな謎を残したまま今日に至っている。しかし、謎が深いほど解きたくなるのが人の性。千年以上の間、『万葉集』...

    [続きを読む](2015.02.07)
  •  祖父が謡の先生をしていた関係で、子供の頃、能の世界は私の身近にあった。身近にありながら、積極的に観に行こうとしなかったのは、ひとえに能面が苦手だったからである。その能面に魅力があることを説いたのが母親で、物の見方が少し変わり、長じて日本文学を専攻するようになってから、謡のひとつも嗜んでおこうという気持ちになり、祖父に教わった。現在の私は、能とはほとんど無縁...

    [続きを読む](2014.11.29)
  •  中将姫の伝説で知られる當麻寺に行くと、仁王門近くの梵鐘わきから美しい二上山を拝むことができる。以前私が訪れたときは曇天で、その愁いを帯びた空模様がまた二上山にはふさわしいように感じられたものである。この山に大津皇子が眠っている。 私が大津皇子に関心を抱いたのは、学生の頃、保田與重郎の「大津皇子の像」を読んでからである。これは毀誉褒貶甚だしい保田が遺した作品...

    [続きを読む](2014.09.06)
  •  石見国(いわみのくに)の妻との別れを詠った長歌もある。「石見相聞歌」だ。こちらは死別ではなく、男が何かの事情で上京しなければならなくなったための別離である。何しろ約1300年前のことなので、いったん遠く離れたら、また再会出来るとは限らない。一時の別れのつもりが一生の別れになることもある。 この長歌の後、「妻依羅娘子」の作とされる歌が出て来ることから、彼女を...

    [続きを読む](2014.02.08)
  •  柿本人麻呂は万葉集を代表する歌人であり、歌聖と尊ばれ、後世に多大な影響を及ぼした。その生涯については、持統天皇の時代に活躍したということ以外、生没年も含めて確かなことは何も分かっておらず、万葉集に書かれてあることから推察するほかない。ゆえに仮説、新説も後を絶たない。たしかにここまで長歌や短歌が知られているのに、記録資料がないのは少し不自然なので、その分興味...

    [続きを読む](2014.01.25)
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