文化 CULTURE

大伴家持 春の歌

2019.03.17
 春になると家持の歌を読みたくなり、本棚から『万葉集』を取り出す。私が好きなのは、巻第十九に収められた三首だ。そのうち二首は天平勝宝5年(753年)の2月23日(太陽暦4月5日)に、一首は2月25日(太陽暦4月7日)に作られている。

  二十三日に、興に依りて作る歌二首
 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも
(春の野に霞がたなびいていて物悲しい。この夕暮れの光の中、うぐいすが鳴いている)

 我がやどの いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも
(我が家のささやかな竹林に吹く風の音がかすかに聞こえる夕べであることよ)

  二十五日に作る歌一首
 うらうらに 照れる春日(はるひ)に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば
(うららかに照る春の陽光の中、ひばりが舞い上がり、心悲しい。独りで物思いにふけっていると)

 「うらうらに」の歌には注があり、「春日遅々にうぐひす正に啼く。悽惆(せいちう)の意、歌に非ずしては撥(はら)ひ難きのみ。仍(よ)りてこの歌を作り、式(もち)て締緒を展(の)べたり」と記されている。心の痛みは歌でなければ紛らすことができないので作歌し、鬱屈した気持ちを散じたという意味だ。

 まずことわっておくと、家持が詠んだ春の歌がすべて「悽惆の意」から生まれているわけではない。別趣の歌もある。

春の苑 紅匂ふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女
吾が園の 李の花か 庭に降る 斑雪(はだれ)の未だ 残りたるかも
もののふの 八十乙女(やそをとめ)らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花


 ただ、その日の家持はこのような歌を詠む心境になかった。鳥の声を聞き、心乱れたのである。当時家持は35歳前後であったと推定される。

 『万葉集』に収められた大伴家持の歌は473首に及び、巻第十七から巻第二十までの大半を占めている。この歌集の最後の歌、「あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事」(新年の初めの今日降る雪のように、喜ばしいことがたくさん積もってほしい)も家持の作である。
 家持は『万葉集』の成立に大きく関わった歌人だが、一方で彼は官吏であり、大納言・大伴旅人の子であり、藤原氏が実権を握る中、大伴氏の行く末を案ずる立場にあった。彼自身、名家の生まれでありながら50歳を過ぎるまで華やかな地位には恵まれていない。時代は変わっていた。世が世なら、という思いはあっただろう。
 しかし、その伝記を辿った印象では、家持には冷静に状況を把握する能力があり、慎重に考え、行動していたようである。周囲では、藤原氏が跋扈する朝廷への反乱計画が練られ、その都度関係者が罰せられていたが、家持は(疑いをかけられたことはあったものの)連座を免れ、最終的には従三位・中納言にまで昇進した。

 春の歌三首は、大伴古慈斐の事件(756年)、橘奈良麻呂の乱(757年)の前に詠まれているが、何か起こりそうな予兆は数年前からあったのだろう。そのように推測し、三首の歌から、大伴氏や家持自身の将来への茫漠とした不安を読み取る人は少なくない。一族が感情に任せて行動することを家持が憂慮していたことは、「族を喩(さと)す歌」(756年)を読めば分かる。「おぼろかに心思ひて 空言も 祖の名絶つな 大伴の氏と名に負へる ますらをの伴」(ぼんやりと軽々しく考えて先祖の名を絶やすな、大伴の氏を担うますらお達よ)ーー「祖の名絶つな」と訴える調子はなんとも切実だ。
 とはいえ、事件の数年前に作られた三首の歌から、そこまで考えるのは大げさな気もする。

 春の日、静かに物思いに耽っている時、鳥が鳴いて舞い上がり消えてゆく。珍しい光景ではない。のどかである。しかし、ふと身動きが取れなくなり、過去の思い出に置き去りにされ、無常の流れの中に溺れてしまいそうになることがある。哀愁や感傷という言葉では説明のつかない春愁にとらわれるのだ。
 春は生命力にあふれた躍動の季節だが、見方を変えれば、無常を最も感じさせる時期とも言える。美しさ、のどかさの中に、無常がある。それを私たちは心身で感じ取っている。だから、何かちょっとしたきっかけで、つい孤独を感じたり遣る瀬なくなったりする。それも度がすぎると物狂おしくなる。

 例えば春の日暮れ時、外で子供たちの遊ぶ明るい声が聞こえたかと思ったら、すぐに走り去って聞こえなくなる。と、静けさが深まったように感じられる。そんな経験をしたことはないだろうか。騒音なら「静かになって良かった」で済むが、それとは違う。家持の歌の場合も、鳥が鳴かず羽音を立てなければただ静かなだけだったのに、その音を聞いたことで静けさの質が変わり、胸が痛くなっているのだ。

 このような心情は、十余年前に詠まれた歌の詞書にもみられる。橙橘の花が咲く頃、ほととぎすの鳴く声を聞き、「鬱結の緒(こころ)を散らさまくのみ」(鬱屈した気持ちを晴らそうと思う)として三首詠んでいるのである。なぜ「鬱結」したのか。それは彼の幼き日の思い出と結びついているのかもしれない。父・大伴旅人に「橘の 花散る里の ほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き」という歌があるので、家持も「橘の花散る里」に滞在していた可能性はある。そんな風につらつら考え、春の鳥の声を聞くと、亡き父のことを思い出すのだろうかと想像してみたくなる。

 一族の話を持ち出すならば、別の見方として、友情で結ばれていた大伴池主との関係から読み解くことも可能ではないだろうか。
 池主は今を盛りと咲く桜の花を見て、家持のことを思い、「われはさぶしも 君としあらねば」(私は寂しい、君と一緒ではないので)と詠んだ。家持は「霍公鳥の歌」を池主に贈り、ほととぎすが鳴くのを聞いたけど、「ひとりのみ 聞けばさぶしも」(一人で聞くのは寂しい)と詠んだ。白楽天が「雪月花の時最も君を憶ふ」と書いたように、本当に良いもの、美しいものは心通ずる人と一緒に味わいたいのである。しかし、その人がそばにいない。それが「悽惆の意」と記すほどの心の痛みなのかどうかはさておき、春が来ると、かつて共に山を眺め、鳥の声に耳を傾けた池主の不在をいつも以上に感じるということはあるだろう。なお、その池主は、後年橘奈良麻呂の乱に連座して捕えられ、獄中死したと見られている。

 延暦4年8月28日(785年10月5日)、家持は持節征東将軍として亡くなったが、その1ヶ月後、藤原種継が暗殺され、多くの大伴氏が捕えられ死罪や流罪に処せられた。すでに亡くなっていた家持は首謀者の一人とみなされて除名処分、その子・永主も流罪、かくして大伴氏は失墜した。生前、家持が最も恐れていた事態に陥ったのだ。永主らが赦免され、家持の復位がなされたのは20年後のことである。慎重派だった家持がこの事件にどの程度関わっていたかは分かっていない。
(阿部十三)


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