文化 CULTURE

大津皇子 未完の英雄は二上山に眠る

2014.09.06
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 中将姫の伝説で知られる當麻寺に行くと、仁王門近くの梵鐘わきから美しい二上山を拝むことができる。以前私が訪れたときは曇天で、その愁いを帯びた空模様がまた二上山にはふさわしいように感じられたものである。この山に大津皇子が眠っている。

 私が大津皇子に関心を抱いたのは、学生の頃、保田與重郎の「大津皇子の像」を読んでからである。これは毀誉褒貶甚だしい保田が遺した作品の中でも慧眼の賜物と呼べる随筆であり、「詩賦之興自大津始也」と称された才能豊かな皇子とその姉、大伯皇女の心情の世界に読む者をひきこまずにはおかない。

 大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた皇子である。生年は天智天皇2年(663年)と伝えられる。『懐風藻』に「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す。これによりて人多く附託す」とあり、すぐれた容貌を持ち、度量が広く、文武に秀で、規則に縛られることなく自由に振る舞い、身分の高低にこだわらず人士と接していたことが分かる。英雄たり得る器の持ち主で、宮での人気も高かったようだ。
 しかし、大田皇女が早世されたため、大津皇子の後ろ盾は弱まり、皇太子の座に就くのは大田皇女の妹、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)が天武天皇との間にもうけた草壁皇子と正式に決まった。それでもなお大津の人徳と才能を慕う官人は多かったようで、『日本書紀』には、天武天皇12年(683年)2月1日に「大津皇子、始めて朝政を聴しめす」と記されている。この一文からも、能力主義を重んじた天武天皇の皇子たちに対する評価を読み取ることができるかもしれない。

 周知の通り、大田皇女も鸕野讚良皇女も、天武天皇の兄、天智天皇の皇女である。いわば大津皇子と草壁皇子は生まれたときから比較される運命にあったといえる。鸕野讚良皇女の立場からすれば、草壁皇子を立てる上で、人望のある大津皇子は警戒すべき存在であった。そして朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇が崩御された後、10月2日に大津皇子の謀反が発覚し、翌日3日、「皇子大津を訳語田(をさた)の舎に賜死(みまからし)む。時に年二十四なり」(『日本書紀』)という形で破局を迎える。天皇の崩御から1ヶ月も経っていない間の出来事である。
 この謀反は大津皇子の莫逆の友、河島皇子(天智天皇の皇子)の密告により発覚した。『懐風藻』には、新羅の僧、行心に唆されて逆謀を進めたとある。とはいえ、本当に謀反を企てていたのかどうかは謎である。『日本書紀』によれば、天武天皇の崩御後、殯(もがり)の際に謀反を起こそうとしたらしいが、具体的に何があったのかは分からない。親友だったはずの河島皇子が何をどのように密告したのかも不明である。大津皇子と河島皇子の結びつきを警戒した鸕野讚良皇女が、河島皇子を圧迫したのではないかとみる人も少なくない。なお、謀反に加担したとされる者たちは全員死を免れたが、大津皇子の妃であり、天智天皇の皇女である山辺皇女は殉死を遂げた。その痛ましい御有様を、『日本書紀』は「妃皇女山辺、被髪(かみをみだ)し徒跣(すあし)にして、奔赴(はしりゆ)きて殉(ともにみまか)る。見る者皆歔欷(すすりな)く」と伝える。

 黒岩重吾の『天翔る白日 小説大津皇子』は、大津皇子の姿を生き生きと描いていて好ましい長編小説だが、あくまでも想像を交えたフィクションである。ただし、「人間の器に集まる衆望は、誰も規制することができないし、その本人さえも、なかなか払い除けることができない」ことを悲劇の遠因としたのは、核心をついているように思われる。

 『日本書紀』によって「詩賦の興り、大津より始れり」と位置づけられた大津皇子はすぐれた歌人であり、詩人であった。その作品は『万葉集』や『懐風藻』におさめられている。中でもとりわけ心を打つのは辞世の歌である。

百傳(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 詞書には「流涕して御作りたまひし歌」とあり、激しく泣いていたことが分かる。それが「容止墻岸(しゃうがん)にして、音辞俊朗なり」(『日本書紀』)と謳われた皇子のことだけに、尋常ではない無念さを感じさせる。枕詞の「百傳ふ」は、本居宣長によれば「角障(つぬさは)ふ」の写し誤りだが、百と今日のみの対比が効果を生んでいることから、ここでは慣例に従った。
 もうひとつ、辞世の詩も遺されている。

金の烏は西舎に臨み
鼓の声は短命を催す
泉路に賓主無し
此の夕家を離れて向ふ


 太陽は西に沈まんとし、時を告げる太鼓の音が短い命をせき立てる。黄泉への旅路は賓主なく孤独なもの。この夕暮れに一人家を離れて旅に出る。ーーえもいわれぬ悲哀と寂寥、悲壮な覚悟に目頭が熱くなる。
 とはいえ、大津皇子の短い人生は悲しいことばかりだったわけではない。激しい恋もしていたようである。その相手は大名児すなわち石川郎女(いしかはのいらつめ)で、大津皇子と次のような歌を交わしている。

  大津皇子、石川郎女に贈りし御歌一首
あしひきの山の雫に妹待つと吾立ち濡れぬ山の雫に
  石川郎女、和(こた)へ奉りし歌一首
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山の雫にならましものを


 大津皇子と石川郎女が人目を忍ぶ恋をしていたことがうかがえる。「山の雫」を繰り返す大津皇子の自在さ、それに対する石川郎女の機転の利かせ方が見事な贈答である。さらに、こんな歌も遺している。

  大津皇子、窃(ひそ)かに石川女郎に婚(あ)ひし時、津守連通その事を占ひ露はせるに、皇子の御作りたまひし歌一首
大船の津守が占に告(のら)むとはまさしく知りて我が二人寝し

 陰陽道に通じていた津守連通は、大津皇子の監視役を命じられていたのだろう。公の場で占いをして、大津皇子が石川郎女と関係を持ったことを暴露したとみえる。それに対し、皇子は臆することなく、お前に知られることなど百も承知の上で寝たのだ、と言っているのである。自分の置かれた窮屈な立場への憤りだけでなく、弱みを握られても全く動じない雄々しい性格を伝える歌である。
 「まさしく」は「まさしに」と書くのが通例だが、写し誤りではないかとする説があり、定まらない。「兼ねてを」と読ませる例もある。大津皇子の率直な感情をのせた歌としては「まさしく」がふさわしいと考え、ここではそのようにしたが、いささか率直にすぎる感もあり、断定し難い。「我が二人寝し」は、神武天皇の「葦原のしけしき小屋に菅畳いやさや敷きて吾が二人寝し」によるものだろう。当時はすぐにそれと察せられたに違いない。この歌を詠んだ時の周囲の反応を見たかったものである。

 ちなみに、草壁皇子も石川郎女に「大名児を彼方野辺に刈る草(かや)の束の間も我れ忘れめや」という歌を贈っている。月並みな歌にみえるが、草壁皇子が石川郎女を愛していたことは分かる。だからこそ、大津皇子は人目を忍ばなければならなかったのかもしれない。その我慢が、津守連通の前で限界に達したのである。

 非業の死を遂げた大津皇子が最初に葬られた地は不明である。おそらく皇子にふさわしくない御墓だったのだろう。その後、御墓は二上山に移された。大津皇子の死から3年後に草壁皇子が亡くなったため、怨霊をおそれた持統天皇がそのように取りはからったのではないかといわれている。『薬師寺縁起』には、大津皇子の霊が二上山で悪龍となり、皇子の師であった義淵が祈祷で鎮めた経緯が記されているが、悪龍鎮まれど怨霊封じられず、河島皇子が草壁皇子の死の2年後に世を去っている。

 二上山は今では「にじょうざん」と呼ばれているが、当時は「ふたかみやま」ないし「ふたがみやま」と呼ばれていた。雄岳と雌岳が身を寄せ合うそのやわらかな起伏はきわめて美しく、万葉の時代から変わらぬ山並みを今に伝える。比較的登りやすい山ではあるが、私は登山慣れしていないので、雄岳頂上近くにある大津皇子の御墓前に着いたときは、足がふらふらしたものである。

 下山の際、祐泉寺を過ぎてそのまま山を下ると、鳥谷口古墳という小さな古墳に辿り着く。こちらも大津皇子の御墓ではないかといわれている。しかしながら、悪龍が二上山から天に昇って暴れたという伝説は、御墓が頂上付近にあることを示しているのではないか。それに、大津皇子の姉、大伯皇女の名歌を味わうとき、私を支配するのは、あくまでも山全体が御墓であるような感覚だ。麓にある小さな古墳という感じはあまりしない。

うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を弟(いろせ)と吾が見む

 「この世の人であるわたしは明日から二上山を弟として眺めるのか」と悲しむ大伯皇女は、大津皇子にとって同じ父母の血を分けた姉である。斉明天皇7年(661年)に生まれ、天武天皇2年(673年)に斎宮として1年間山中で斎戒生活を送り、翌年から伊勢神宮に仕え、大津皇子が亡くなるまでその任を解かれることはなかった。任を解かれて都に来たのは弟の死後40日余り経ってからのこと。その御心の悲しみと詮方なさは余人の想像を絶するものがある。

  大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女の、伊勢の斎宮より京に上りし時に御作りたまひし歌二首
神風の伊勢の國にもあらましを何しか來けむ君もあらなくに
見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか來けむ馬疲るるに


 前の歌は「伊勢の国にでもとどまっていれば良かったのにどうして来たのだろう。愛しい弟もいないのに」、後の歌は「会いたいと願う愛しい弟もいないのにどうして来たのだろう。馬が疲れるだけなのに」という意味である。その率直さの裏側に、それでもかつて弟が生活し、足跡を残した場所に来ずにはいられなかった深く純粋な心情が読み取れる。
 『万葉集』の詞書によると、大津皇子は亡くなる前、伊勢神宮を訪れて姉と会っている。その際、大伯皇女が詠んだ歌が次の二首である。

わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露(あかときつゆ)に吾が立ち濡れし
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ


 詞書に「大津皇子の窃かに伊勢神宮に下りて」とあり、歌の中に「秋山」とあることから、事件の起こる直前、皇子が自分の立場の危うさを悟り、身動きがとれるうちに、無理をして姉に会いに来たのではないかと推察される。「いかにか君がひとり越ゆらむ」は、その後の皇子の孤独な死を暗示しているようで重い。

 『日本書紀』『懐風藻』ともに、大津皇子のすぐれた面を明記している。『日本書紀』が草壁皇子を父とする元正天皇に献上されたことを考慮に入れても、そこには公正さが感じられる。草壁皇子以上の評価がなされているといっても過言ではない。にもかかわらず、『日本書紀』『懐風藻』の双方に謀反の記述がある。大津皇子が不利になることをあえて記したとは考えにくいので(怨霊が信じられていたとすればなおさらである)、当時は謀反があったとする見解が完全に定着していたのだろう。
 しかし、古の悪龍の伝説は、その死が不当なものだったことを象徴しているように私には思われる。そこには悪龍になるだけの理由がなければならない。一体、大津皇子の身に何があったのだろうか。後ろ盾を失った皇子の不安や不満が謀反心とみなされたのか。軽い気持ちで親友に将来の夢を語ったことが謀反とみなされたのか。持統天皇の生前、二上山に改葬される処遇を受けていることを考え合わせると、ますます分からなくなる。

 曇天を戴く二上山は、深い秘密を静かに覆っているように見える。その眺めは心にしみる。遠い歴史が我が身に迫り、この山に想いを寄せた人々のため息が我が胸を満たす。雨が降れば、それは大津皇子と大伯皇女の涙である。
(阿部十三)


【関連サイト】
『懐風藻』(書籍)
『日本書紀』(書籍)
『日本の古典をよむ 万葉集』(書籍)

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