文化 CULTURE

『おもろさうし』の言霊

2020.02.16
kudaka a1
 沖縄に伝わる古い歌謡「オモロ」を集めた『おもろさうし』を読んでいると、言霊の力について考えたくなる。『おもろさうし』は全22巻の歌謡集で、第1巻は1531年、第22巻は1623年頃に成立したと言われている。その歌数は1554首、重複しているものを除くと1248首である。

 言霊といえば、まず言及すべきは『万葉集』だろう。巻十三には、言霊の二文字が入った有名な歌がある。作者は柿本人麻呂。長歌で「日本は神意を重んじ、言挙げ(誓いや願いをことさら言い立てること)をしない国だが、自分はあえて言挙げをして、航海に出るあなたの無事を祈る」という意味のことが詠まれ、これに次の反歌が添えられている。

 しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞま幸(さき)くありこそ

 歌意は、「大和の国は言霊の守護のある国です。ご無事でいらしてください」。本来言挙げをしないことは重々承知の上で、自らそうせずにいられないほど、「ま幸くありこそ」と強く思っているということである。この反歌は、個人の感情の力で意識的に言霊を放った例として大きな意味を持つ。

 人麻呂の生涯は謎に包まれているので真偽のほどは分からないが、一説によると、これは702年に遣唐使に向けて詠まれた歌だという。その使節の中にいた山上憶良は、人麻呂の歌を踏まえ、733年に出立した遣唐使に向けて、「言霊の幸(さき)わう国」と詠み、無事を祈った。

 折口信夫は言霊を「言語精霊」と表現した。それは選ばれし者の言葉の中に存在し、普通の人間の話し言葉に存在するものではないらしい。しかし、皇神や巫女だけでなく、人麻呂や憶良、そして自分の恋を占う者(「言霊の八十の衢」の歌の作者)まで入れると「選ばれし者」の境界線は曖昧になる。私自身は、あえて言挙げをした人麻呂によって、言霊は特定の人の占有物ではなくなり、多くの人間(個人)に解放されたのだと感じる。ただ、使う人間によって効力の強さは異なるのだろう。

 それはさておき、ここでは言霊思想の解説として、『高校生のための古典副読本 沖縄の文学』に書かれている分かりやすい文章を引用したい。

「言霊思想とは、ことばに、ある不可視の霊的な働きを認め、美しいことばには、よき結果が、悪しきことばには悪しき結果があらわれるという考え方である」

 美しい言葉には良い結果があらわれる。言霊が人や国の「助」となり「幸」となる。『万葉集』に見られるそういう言霊観が、『おもろさうし』では徹底されている。

 『おもろさうし』に収められた歌の多くは、予祝性と切り離せない。太陽は恵みをもたらし、農作物は豊かに実り、漁や船旅はつつがなく行われ、王は民の心の拠りどころとなる。これらのことを現実のものとするのが、「思い」を語源とするオモロの言霊である。ポジティブな言葉を外に放ち、良いことが起こるようにするのだ。

 そういう性格を持つため、いわゆる和歌の題材の定番である恋愛の切なさ、人生の悲哀を扱ったオモロは少ない。悪い言葉、暗い言葉、ネガティブな言葉はほとんど遠ざけられている。何もせずに天命を待つのではなく、良い言葉を尽くして天命に良い影響を及ぼそうという姿勢が貫かれているのだ。それは「然れども 言挙げぞ我がする」と詠んだ柿本人麻呂の心情と合致する。

 船旅の無事、国の繁栄を祈願するオモロは、民が直接的に呼びかけるのではなく、神や神女に思いを託す形式をとることが多い。神女とは「ノロ」、ないし、「ノロ」の最高位にあたる「聞得大君」と呼ばれる女性のことで、祭事において大きな役割を担う。

  かゑふたの親のろ
  とからあすび 崇(たか)べて
  うらこしちへ
  袖 垂れて 走(は)りやせ
又 根の島の親のろ
又 神々は崇べて
又 北風 乞わば 北風 なれ
又 南風 乞わば 南風 なれ


 これは『おもろさうし』第13巻の183番の歌で、歌意は「与論島の親ノロ神女よ、とからあすび(神遊び、神祭り)のために神を崇め敬って、もどかしがり急がせて、袖を垂れて(鳥が羽根を下に広げて飛翔するように、船が早く進むことを意味する)、船を走らせよ。与論島の親ノロ神女よ、神を崇め敬って、北風を乞うたら北風が吹いてくれ。南風を乞うたら南風が吹いてくれ」である。

 不確定な自然を、言葉が持つ効力によって克服する。その言葉に込められる思いは、強く、誠実なものでなければならない。当然のことながら、思いだけではなく、言葉の選択も大事である。『おもろさうし』を繰っていると、頻出する言葉がいくつかあることに気付かされる。例えば「鳴響(とよ)む」。鳴り響く、名高くなるという意味だが、これは太陽や王様を賛美する歌によく見られる。『おもろさうし』の第7巻の35番、第13巻の106番で歌われるオモロでは、「天に鳴響む大主(太陽)」という風につかわれている。

 言霊とは本来人の生命を重んじた祈りのためにあると私は思う。オモロが放ったのはそのような言霊だし、柿本人麻呂も人命の無事を祈念して、「言霊の助くる国」と詠んだ。しかし、悪しき言葉から放たれる悪しき言霊もある。それは人を負の感情で染めたり、煽りに煽って死地へと追いやったりする。

 世に放たれ蔓延した悪しき言葉を抑えるものは、時間の経過のほかにない。ただ、田舎の陰口レベルの言霊であれば、どうにか対処できるようだ。私が知っているのは、沖縄の久高島で行われていた「クチゲージ」と呼ばれる儀式である。詳しいことは比嘉康雄著『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』に書かれているが、その内容は言霊を封じる術があることを知らずにいた私には興味深いものだった。

 クチゲージの儀式は、夜、悪口の被害を受けている者の家の玄関や縁側で、外に向かって行われる。神饌は魚の頭を6個盛った2皿、麦と豆を炒ったもの1皿で、お膳に並べて据える。そしてお香を12本、割ったものを数本添える。それらが整ったら、ティンユタ(混沌霊を司ることができる神職者)が供え物の前で祝詞を唱える。「人の因縁、悪い言葉も、それぞれ言葉を発した本人のもとに帰ってください」と。祝詞の後、供え物は人通りの多い道の真ん中に埋める。これで一件落着。なお、「クチ」は口、「ゲージ」は追い返すという意味である。

 悪口や陰口はすぐに広まる。言霊が形成した穢れのイメージは簡単には払拭できない。でも、クチゲージを使えば、言霊の行き先を変えて、発信元である人間の口に戻すことができる。この発想は、悪い言葉がなくならない世界で私たちが健全に生きるための知恵である。発した人間の口に戻すところは教訓的であり、また、理にもかなっている。

 とはいえ、「クチゲージ」には魚の頭をたくさん用意しなければならないし、ティンユタの力も借りなければならないので、簡単には実践できない。もう少し手軽に悪い言葉を封じ、効力を消す術はないものだろうか。
(阿部十三)

Photograph Courtesy of Naoko Tabata

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