音楽 CLASSIC

"再生"される伝説 〜2枚のライヴ盤を聴きながら〜

2011.02.07
 往年の大指揮者たちのライヴ盤に接する際、「繰り返し聴くことができる」ということに対して、有り難さと同時に、畏れに近いものを感じる。今でこそ録音を前提としたライヴは多くあるし、指揮者もそのことを承知の上なのだろうが、かつてはまさかこの日の演奏がどこかで録音され、さらにCD化され、未来永劫聴き継がれることになろうと考えて指揮台に立った人はほとんどいなかったに違いない。文字通り、一夜のための演奏だったのだ。
 だからというわけでもないが、私たちも、せめて最初にライヴ盤を聴く時は、一度きりの場面に臨むつもりで集中して聴きたいものである。伝説として語り継がれているキリル・コンドラシン指揮によるマーラーの「巨人」などを聴くと、つくづくそういう気持ちにさせられる。

 1981年の3月7日、アムステルダム。急病のクラウス・テンシュテットに代わり、北ドイツ放送交響楽団のコンサートでこの「巨人」を振ったコンドラシンは、ホテルに帰った直後、心臓発作を起こして急逝した。メイドに発見されたのは翌朝のことである。ソ連から亡命して3年、67年の波乱に満ちた生涯のあまりにも突然の幕切れだった。
 こういった話を聞くと、良くも悪くも余計な感情が働いてしまう。私など、これの海賊盤が出回っていた頃、どれほど無軌道で呪わしい演奏が繰り広げられているか想像し、敬遠していたくらいである。しかし、実際に聴いてみて驚いた。みなぎる緊張感、ツボを押さえた明確なデュナーミク、どんなに荒々しく情熱的な響きを炸裂させても、指揮者の統率力がゆるむことはない。そして、異様なほど澄んだ空気。つねに全体が見通され、曖昧なところがない。これが死を目前にした人間の指揮なのだろうか。
 もともとコンドラシンは、ソ連ではマーラー作品の理解者として知られていたし、また、すぐれたオーケストラ・トレーナーでもあったが、それにしても短い練習時間でここまで透徹した音楽がやれるとは、やはり天佑神助のようなものがあったのかもしれない。マーラーの交響曲の中でも人気曲でありながら、その世界に踏み込むまでには意外と時間のかかる「巨人」。核のつかみにくい管弦楽の迷路も、コンドラシンの指揮に従って進んでいけば、見晴らしのよい地平に出ることができるだろう。そういう意味では、「巨人」を聴く初めの一枚としても薦められる。

 もう一枚、ヘルベルト・フォン・カラヤンが1978年にベルリン・フィルを振ったライヴ盤を紹介しておきたい。PALEXAというレーベルから出て一時話題になったものだが、やはりこの演奏、非常におもしろい。カラヤンといえば、録音の数が途方もなく多いわりに、大半が作り込まれたレコーディングによるもので、めぼしいライヴ盤が少ない。それだけにこの音源は、史上最も有名な指揮者の実像を知る上でも貴重である。
 内容はベートーヴェンの交響曲第7番(1978年1月28日)と、ストラヴィンスキーの『春の祭典』(1978年8月31日)。ベートーヴェンでは、レガート奏法を重んじつつ流れるようなテンポの中で各パートを歌わせ、美しいアンサンブルを聴かせる。なんといっても圧巻は終楽章で、突如、糸が切れたように高速で直滑降し、凄まじい勢いでスパークする。それでも乱れることがない。これだけでもカラヤンの指揮力の高さは十分伝わってくる。
 一方、『春の祭典』は刹那的な音響の狂宴。色彩感というよりは、透明感が強く、緩急強弱のコントラストが露骨なほどはっきりしている。はかなくてどこか冷たい感触のある弱音、抑えきれずに躍り出る露骨で野放図な響き、力まかせに暴れ回る野蛮なリズム。名うてのベルリン・フィルの奏者たちも必死である。カラヤンはオーケストラをうまく放し飼いにして、演奏効果を極限まで高めようとしているようだ。「大地の踊り」や「いけにえの踊り」でのティンパニの強打の連続には唖然とするほかない。こうしたエキサイティングなアプローチも、カラヤンの場合、ライヴならではのものだ。
 これらの演奏を生で聴けた人は幸いだが、数十年の時を経てCDで出会えた私たちもまた恵まれていると言うべきだろう。