聖徳太子の思想
2026.02.23
太子信仰
聖徳太子に夢中だった時期がある。多分一万円札の顔だったことがきっかけだろう。当時はまだ子どもだったので、一万円札を目にする機会があまりなく、それで尊いと感じたのかもしれない。小学六年の時は、夏休みの自由研究の題材にした。いくつかの伝記を読み、テーマを設定し、模造紙四、五枚に書き写したようなもので、大した研究でもなかったが、今思えば、あれは何かについて書きたいと思った最初の衝動だった。
それからしばらくして太子虚構説が活発化してきた。「太子の功績は本当は蘇我馬子のものだ」「太子は摂政ですらなかった」「十七条憲法は捏造された」「聖徳太子ではなく厩戸王と呼ぶべきだ」といった話は、歴史家による問題提起というより、日本的価値観と闘争する思想家のドグマのように感じられた。蘇我氏を再評価すること自体は構わない。ただ限度を忘れ、太子の尊厳を傷つけ、学校の教科書から「聖徳太子」の名前を削除させようとする動きは、はっきり言って、性急で胡散臭いものだった。
一般的には、太子の人気は高い。全国各地に太子ゆかりの寺社があり、人が集まっている。多くの人は、太子のことを貴ぶとか崇めるといった意識もなく、ありがたい存在だと思っている。太子信仰の根は深く、ほとんど習性化している。それは「聖徳太子に帰依し、これを礼拝し、供養すること、すなわち太子を崇拝する気持ち」(榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』)とまでは言えないかもしれないが、各々の太子像が深層にある上で無自覚に信仰している状態とは言えるだろう。
太子信仰は奈良時代に始まり、鎌倉時代に盛期を迎えた。源実朝、親鸞、日蓮、慈円、一遍も太子の賛美者であった。太子信仰の礎となったのは、数々の事績である。初の女性天皇である推古天皇の摂政を務めたこと、日本初の成文法である十七条憲法を制定したこと、血筋ではなく能力や人格等で登用する冠位十二階制度を設けたこと、仏教を広めたこと、遣隋使を派遣したこと、世界最古の木造建築である法隆寺の建立を進めたことなど、その事績は華々しい。他にも、紙を作る技術を普及させた、伎楽の普及に寄与して芸能を豊かにした、いけばな発祥の地とされる六角堂を創建した、さらには8人ないし10人の話を聞き分けることができた、未来を見通す力があった......など様々な伝承がある。
十七条憲法という教典
604年に制定された十七条憲法は、聖徳太子の人格、教養、政治力を知る上で極めて重要なものだ。聖徳太子はこの憲法を作るにあたり、『論語』『中庸』『老子』『荘子』『管子』『韓非子』『文選』などを参考にし、必要なものを折衷的に取り上げ、独自に構築した。口さがない人は「役人の心構えを説いたものにすぎない」と言うが、実際には、これは高邁でありながらも現実的な問題に対して機能するよう考えられた憲法であり、思想書であり、太子信仰の教典の一つでもある。
第一条は「以和為貴 無忤為宗(和を以て貴しとし、忤うこと無きを宗とす)」で始まる。当時は氏族集団の不和により、天皇家も争乱に巻き込まれていた。丁未の乱(587年)で戦死した皇族もいた。
聖徳太子は「達(さと)れる者少なし」(質直で思慮深く、全体の利害を考慮する人は少ない)という状況を把握した上で、国家建設を果たすために、まずはじめに「和」を説いた。人はそれぞれ集団に属し、それぞれ集団的エゴイズムに囚われ、そのため様々な争いが生じている。しかし上の者と下の者が和合和睦し、十分話し合えば、事の筋道が通り、無用な争いはしなくなる。第一条にはそのように書かれている。興味深いのは、下に睦びることを求めるだけでなく、上にも和らぐことを求めている点である。話し合いを重視しているところも含めて、民主主義的な思想がここに現れていると言える。
和の実現のため
十七条憲法は「和」を実現するために人はどうあるべきかということをテーマとしている。前提として、君子は少ないが極悪人も少ない、能く教えれば従うはず、という人間観がある。そこで太子が説くのは「篤敬三宝」(第二条)と「承詔必謹」(第三条)、つまり精神的支柱となる仏教、天皇のことである。さらに、官吏は勤勉であれ、賞罰は公正にせよ、妬み嫉みを棄てよ、怒りに支配されるな、国司や国造は百姓から勝手に税金を取り立てるな......と説く。民主主義的な話し合い重視の思想は、最後の第十七条にもみられる。権力を持つ側が、自ら独断を禁じ、大きな決断をする時は皆と話し合えと言っているのだ。
第四条で礼を重んじているのは、いかにも日本的である。上に立つ人間に礼がなく、ただ偉そうにしていたら、下の者はまとまらない。下の者(百姓も含めて)にも礼がなければならない。礼があれば秩序が保たれ、国は治まる。これは今の時代にも当てはまる金言だ。周知の通り、聖徳太子は冠位十二階制の位階を仁礼信義智の順とし、人間性ないし人品を重視した。あまりに智が乏しくなっても国としては困るが、礼なき人の智は狡智に転じやすい。まず「和」を実現するために、礼を優先させるのは当然だろう。
梅原猛が『聖徳太子』で指摘したように、この憲法は儒教、老荘、仏教、神道、法家など異なる思想を包括したことで、内部矛盾を宿している。罰則の規定もないため、法律としてどの程度効力があったかは分からない。ただ、日本人には論理的矛盾に拘泥せず、うまく受け入れる性質がある。思想が複合的で、それでいながら折衷的であり、和を志向しているところは、かえって日本人の気性に合っているように私には思われる。
推古天皇がこの憲法を支持したであろうことは想像できるが、時の権力者である蘇我馬子の方はどうだったのだろう。「大事を行うときは皆と話し合え」と言われて、素直に聞くような人物だったのだろうか。だとしたら、蘇我氏といえば誰もが連想する「専横」「傲慢」「暴力」のイメージとは異なりそうである。あるいは、今もこの憲法を「役人の心構えを説いたものにすぎない」と言う人がいるように、馬子もそのようにみなし、己の権力に影響のないものとして承認した可能性もある。国家建設を企図した内容でありながら、大したことは書かれていないと相手に感じさせること。それは案外太子の狙いだったのかもしれない。
聖徳太子に夢中だった時期がある。多分一万円札の顔だったことがきっかけだろう。当時はまだ子どもだったので、一万円札を目にする機会があまりなく、それで尊いと感じたのかもしれない。小学六年の時は、夏休みの自由研究の題材にした。いくつかの伝記を読み、テーマを設定し、模造紙四、五枚に書き写したようなもので、大した研究でもなかったが、今思えば、あれは何かについて書きたいと思った最初の衝動だった。
それからしばらくして太子虚構説が活発化してきた。「太子の功績は本当は蘇我馬子のものだ」「太子は摂政ですらなかった」「十七条憲法は捏造された」「聖徳太子ではなく厩戸王と呼ぶべきだ」といった話は、歴史家による問題提起というより、日本的価値観と闘争する思想家のドグマのように感じられた。蘇我氏を再評価すること自体は構わない。ただ限度を忘れ、太子の尊厳を傷つけ、学校の教科書から「聖徳太子」の名前を削除させようとする動きは、はっきり言って、性急で胡散臭いものだった。
一般的には、太子の人気は高い。全国各地に太子ゆかりの寺社があり、人が集まっている。多くの人は、太子のことを貴ぶとか崇めるといった意識もなく、ありがたい存在だと思っている。太子信仰の根は深く、ほとんど習性化している。それは「聖徳太子に帰依し、これを礼拝し、供養すること、すなわち太子を崇拝する気持ち」(榊原史子『聖徳太子信仰とは何か』)とまでは言えないかもしれないが、各々の太子像が深層にある上で無自覚に信仰している状態とは言えるだろう。
太子信仰は奈良時代に始まり、鎌倉時代に盛期を迎えた。源実朝、親鸞、日蓮、慈円、一遍も太子の賛美者であった。太子信仰の礎となったのは、数々の事績である。初の女性天皇である推古天皇の摂政を務めたこと、日本初の成文法である十七条憲法を制定したこと、血筋ではなく能力や人格等で登用する冠位十二階制度を設けたこと、仏教を広めたこと、遣隋使を派遣したこと、世界最古の木造建築である法隆寺の建立を進めたことなど、その事績は華々しい。他にも、紙を作る技術を普及させた、伎楽の普及に寄与して芸能を豊かにした、いけばな発祥の地とされる六角堂を創建した、さらには8人ないし10人の話を聞き分けることができた、未来を見通す力があった......など様々な伝承がある。
十七条憲法という教典
604年に制定された十七条憲法は、聖徳太子の人格、教養、政治力を知る上で極めて重要なものだ。聖徳太子はこの憲法を作るにあたり、『論語』『中庸』『老子』『荘子』『管子』『韓非子』『文選』などを参考にし、必要なものを折衷的に取り上げ、独自に構築した。口さがない人は「役人の心構えを説いたものにすぎない」と言うが、実際には、これは高邁でありながらも現実的な問題に対して機能するよう考えられた憲法であり、思想書であり、太子信仰の教典の一つでもある。
第一条は「以和為貴 無忤為宗(和を以て貴しとし、忤うこと無きを宗とす)」で始まる。当時は氏族集団の不和により、天皇家も争乱に巻き込まれていた。丁未の乱(587年)で戦死した皇族もいた。
「日本国は、ただ相争う氏族の集合体で、統一国家ではない。聖徳太子は、日本国を仏教精神にみちた文化国家にするとともに、強い武力をもった統一国家にしようとしていた」
(梅原猛『聖徳太子』)
聖徳太子は「達(さと)れる者少なし」(質直で思慮深く、全体の利害を考慮する人は少ない)という状況を把握した上で、国家建設を果たすために、まずはじめに「和」を説いた。人はそれぞれ集団に属し、それぞれ集団的エゴイズムに囚われ、そのため様々な争いが生じている。しかし上の者と下の者が和合和睦し、十分話し合えば、事の筋道が通り、無用な争いはしなくなる。第一条にはそのように書かれている。興味深いのは、下に睦びることを求めるだけでなく、上にも和らぐことを求めている点である。話し合いを重視しているところも含めて、民主主義的な思想がここに現れていると言える。
和の実現のため
十七条憲法は「和」を実現するために人はどうあるべきかということをテーマとしている。前提として、君子は少ないが極悪人も少ない、能く教えれば従うはず、という人間観がある。そこで太子が説くのは「篤敬三宝」(第二条)と「承詔必謹」(第三条)、つまり精神的支柱となる仏教、天皇のことである。さらに、官吏は勤勉であれ、賞罰は公正にせよ、妬み嫉みを棄てよ、怒りに支配されるな、国司や国造は百姓から勝手に税金を取り立てるな......と説く。民主主義的な話し合い重視の思想は、最後の第十七条にもみられる。権力を持つ側が、自ら独断を禁じ、大きな決断をする時は皆と話し合えと言っているのだ。
第四条で礼を重んじているのは、いかにも日本的である。上に立つ人間に礼がなく、ただ偉そうにしていたら、下の者はまとまらない。下の者(百姓も含めて)にも礼がなければならない。礼があれば秩序が保たれ、国は治まる。これは今の時代にも当てはまる金言だ。周知の通り、聖徳太子は冠位十二階制の位階を仁礼信義智の順とし、人間性ないし人品を重視した。あまりに智が乏しくなっても国としては困るが、礼なき人の智は狡智に転じやすい。まず「和」を実現するために、礼を優先させるのは当然だろう。
梅原猛が『聖徳太子』で指摘したように、この憲法は儒教、老荘、仏教、神道、法家など異なる思想を包括したことで、内部矛盾を宿している。罰則の規定もないため、法律としてどの程度効力があったかは分からない。ただ、日本人には論理的矛盾に拘泥せず、うまく受け入れる性質がある。思想が複合的で、それでいながら折衷的であり、和を志向しているところは、かえって日本人の気性に合っているように私には思われる。
推古天皇がこの憲法を支持したであろうことは想像できるが、時の権力者である蘇我馬子の方はどうだったのだろう。「大事を行うときは皆と話し合え」と言われて、素直に聞くような人物だったのだろうか。だとしたら、蘇我氏といえば誰もが連想する「専横」「傲慢」「暴力」のイメージとは異なりそうである。あるいは、今もこの憲法を「役人の心構えを説いたものにすぎない」と言う人がいるように、馬子もそのようにみなし、己の権力に影響のないものとして承認した可能性もある。国家建設を企図した内容でありながら、大したことは書かれていないと相手に感じさせること。それは案外太子の狙いだったのかもしれない。
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