映画 MOVIE

『新宿純愛物語』 〜最も危険な純愛〜

2013.10.26
 名作というよりカルト作、怪作のようにみなされている映画でも、その人が観た時の外的状況や内的状態によって深く心に残る作品になることがある。1987年に公開された那須博之監督の『新宿純愛物語』は、まさにその典型といっていい。これは当時中学2年生だった私にとって精神上の快楽になり、支えにもなった映画の一つである。なので、いくつか欠点があるのは承知の上で、今なお愛情を持ち続けているし、少々大袈裟にいえば感謝の念すら抱いている。

 原作は1986年2月に講談社から出版されたハードアクション&ラヴロマンス小説である。作者はこれがデビュー作となった桑原譲太郎。『ボクの女に手を出すな』の原作者でもある。
 主人公の名前は一条寺文麿といい、新宿をこよなく愛する自称「超人的落ちこぼれエリート」だ。吉祥寺在住で、趣味は新ブラ(新宿をブラブラすること)。自虐的だが開き直っていて、「華麗なるは名ばかりの貧乏御一家であり、肉体労働者タイプの三枚目、かつ頭脳混迷、先天性落ちこぼれのクズ野郎」と自己紹介している。

shinjuku_junai_monogatari_a1
 この原作には映画と異なる部分が多いので簡単に説明しておくと、一条寺文麿は(おそらく)20代半ば、ヒロインの尾花マリは24歳である。文麿は自分のことを落ちこぼれだといいながらも、セックス産業の氾濫やサラ金業界の隆盛に対して一家言持っている。ただの「クズ野郎」ではないようだ。「善良なる市民の生き血を吸う奴は、いつの世にも一見庶民の味方面をするもの」とか「発展しすぎた文明や国家は峠を越せば落下し消え去る」といった警句も次々飛び出してくる。
 ただし、その行動パターンは短絡的であり、喧嘩っ早く、物事を穏便に解決させることが出来ない。ポニーテールの女の子に目がないという弱点もある。一方、尾花マリは元ヤクザの尾花建設社長の娘。何不自由なく暮らしているため刺激が足りず、「ニトログリセリンみたいな、危険で圧倒的な生き方をする男」とのロマンスを夢見ている。髪型はポニーテールである。

 そんな2人が新宿サブナードで出会い、一目で恋に落ちる。そして一緒に食事をしたレストランの支払いが足りなかったことからドラマが始まる。まず文麿がレストランの店員たちをぶちのめしたことで騒動が起こり、刑事に暴力をふるったことで事態が深刻化し、松岡組直営の「ワイルドローン」を襲撃したことで後戻り出来なくなり、その事務所にあったワルサーPPKを持ち出したことでカオスになる。ヤクザと警察の両方から追われる身となった文麿とマリは、その後、2人の走り屋の協力を得て危機を乗り越え、最後に松岡組の特攻隊長・白井寿一を含む5人に「新宿ガントレット」を挑み、ランダムに襲いかかってくる刺客たちを相手に死闘を演じる。以上、時間の経過にして僅か半日を描いた物語である。

 「静かすぎた俺の人生が、尾花マリ嬢をスペシャル・ゲストに迎えたとたん、ドンチャン騒ぎを始めた」とか「二人の激しい嵐のような出逢いーーそれが巻き起こしたドラマであった」とあるように、いわば危険かつ迷惑なカップルの話である。ヤクザも警察も被害者にすぎない。ただ、行き過ぎたストーリーも、ご都合主義的な心理描写も、極点を超えてしまうと、「なんでそうなるの?」と突っ込む気が失せて、性急な刺激の連打に身を委ねたくなる。小説としては、あまり意味があるとはいえない一人称と三人称の使い分け、文麿による一人称の「私」と「俺」の混在など粗いところがあるが、闇雲なスピード感と軽妙な語り口と強引な腕力によって一気に読ませてしまう。

 映画版では、文麿役を仲村トオル、マリ役を一条寺美奈が演じている。年齢設定は文麿が20歳、マリが17歳。それ以外にも、マリの女友達や飼い猫が登場したり、出会いのシーンが変にユーモラスになっていたり、松岡組が白井組になっていたり、大地康雄扮する刑事が原作以上にフィーチャーされていたり、「新宿ガントレット」がなかったり......と原作に変更が加えられているものの、前半部分に関しては映画として比較的テンポ良くまとまっている。
 ただ、マリが刑事に監禁されてからの後半部分は激闘シーンが冗長になり、グレネードランチャーやら火炎放射機やらが炸裂しすぎて徐々に飽和状態に陥っていく。そんな中、切れ味鋭い動きでスパイシーな存在感を発揮しているのが白井寿一役の松井哲也。サモ・ハン・キンポーとも共演したことのある彼のアクションはなかなか見応えがある。人生まだまだ無茶をする余地はあるといわんばかりのラストシーンも爽快で、80年代らしい無鉄砲なすがすがしさがたまらない。反面、ドンチャン騒ぎが終わる淋しさも感じさせる。

 ちなみに、「ワクワク感性・フリーゾーン ジョイフル・新宿」の看板がぶら下がっている地下商店街のシーン(テレビでこのシーンのメイキングをみた時は、自分もエキストラ参加したかったと思ったものだ)は、サブナードではなく、新潟地下街西堀ローサで撮られている。そのため、よく見ると「ローサ ラブリー プレゼント」の文字が......。まあ、ご愛嬌ということで。
 本作を語る際、必ずといっていいほどあげつらわれる主題歌やデュエット曲も、お仕着せのような演技も、当時の私は受け入れていたし、今でも愛すべき要素だと思って鑑賞している。少なくとも歌の存在ゆえに否定されるような作品ではない。サントラに関していえば、デュエット曲のメロウなインストバージョンや疾走シーンのテーマなどはよく出来ているし、きちんと評価されていいはずだ。キャストの方も、演技の巧拙はともかく、新日本プロレスのレスラーやビーバップ軍団などが出演し、賑やかである。

 もっとも、『新宿純愛物語』は仲村トオルに苦い体験をもたらしたようである。2012年11月号の『SWITCH』のインタビューで彼はこう語っている。
「当時別の仕事で関西を訪れたら、映画館の館主さんに『今回は全然客が入らんなあ。平日の昼間に来てみぃ。アンタ寝込むでぇ』と言われた(笑)。つまり興行としてコケていたんです。あれはキツかった。全くの素人でこの世界に入って、がむしゃらに言われるままに走ってきたけど、それだけではもうダメなんだと痛感した瞬間でした」
 舞台が舞台なので、関西では特にウケなかったというのはあるかもしれない。しかし、ヒット作であろうがなかろうが私にはどうでも良かった。とにかく十分楽しめたのだから。

 『新宿純愛物語』を観ると、くよくよしていることが馬鹿らしくなってくる。平凡な日常世界にいた一条寺文麿は、マリとの出会いをきっかけに非常識な選択を衝動的に繰り返し、小火はやがて大火事になり、日常を超えていった。人生には狭い範囲の中に種々の細かい選択肢があり、その選択の積み重ねで今があるわけだが、その狭い範囲を逸脱し、文麿のような選択をすることも可能なのだ。そう考えた時、実際にはそんな選択は出来ないにしても、ひどく落ちこぼれていた中学生の私はなんだか気楽になったのである。

 数年前、ふと思いついて、原作の「新宿ガントレット」のルートを辿ったことがある。順路は、靖国通り→テアトル新宿→明治通り→新宿通り→新宿大ガード→安田火災海上本社ビル(現:損保ジャパン本社ビル)→新宿野村ビル→新宿センタービル→新宿三井ビル→新宿住友ビル→ホテルセンチュリーハイアット(現:ハイアットリージェンシー東京)→新宿中央公園である。何をやってるんだか、と歩きながら自嘲すること数回、中央公園に着いた時は達成感が湧いてくるのを抑えることが出来なかった。同時に、私は遅まきながら大事なことに気付いたのである。『新宿純愛物語』とは、新宿で出会った男女の純愛だけでなく、新宿という街への純愛を謳ったものでもあるのだ、と。
(阿部十三)


【関連サイト】
新宿純愛物語(DVD)
仲村トオル