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伏見直江 〜伝法肌の色気〜

2014.11.13
FUSHIMI NAOE A
 鉄火肌とか伝法肌という言葉を目にすると、伏見直江という女優の顔が脳裏に浮かぶ。今日観ることのできる僅かなフィルム、少なからぬスチル写真、いくつかの映画評が、「鉄火肌=伏見直江」というイメージを私の中に作り上げたのだろう。いろいろ調べてみると、実際の彼女もイメージを裏切らない人だったようで、男の子として育てられたこともあり、性格は男勝り、しかも美貌であったことから、10代半ばの頃には京都先斗町の芸者に惚れられるという珍事件を起こしている。

 初舞台を踏んだのは3才のとき。読み書きも教わらぬまま演技の世界に飛び込み、男の子役を演じていた。そんな伏見にとって最初の転機となったのが、築地小劇場の中心人物、小山内薫との出会いである。小山内から片仮名と数字を教わった伏見は、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』で役をもらい、イプセンの『民衆の敵』、チェーホフの『三人姉妹』で注目された。築地小劇場で修行を積んだ後、1926年に帝国キネマに引き抜かれ、家族と共に関西へ移住。「霧島直子」という芸名をつけられ、18歳にして月給150円を受け取る身分になると、その給料で、後年女優になる妹の信子を学校に通わせた。

 1927年、帝キネから阪妻プロを経て、日活へ。当時の日活にはいわゆる「時代映画」を改革した伊藤大輔監督、カメラマン唐沢弘光、そして大河内傳次郎がいた。これは巡り合わせとしか言いようがない。かくして、「霧島直子」改め「伏見直江」は第2の転機を迎える。
 伏見が大河内と共演したのは『忠次旅日記 御用篇』(1927年)からで、鉄火肌のお品を演じ、存在感を示した。さらに『新版大岡政談』(1928年)では櫛巻お藤を好演、大河内との名コンビぶりを印象づけた。お藤が短銃を構え、目を細め、妖艶な笑みを浮かべながら、「お前さん達、動くと危ないよ! この異人さんの玩具はひどく気短かだからね」と捕り方たちに警告するシーンは、フィルムがぼろぼろでも、観る者を痺れさせる。20歳とは思えない妖しさと存在感だ。世間でも、「鉄火姐御といえば伏見直江」というイメージはこの辺りで定着したものと思われる。

 1928年、大河内とのコンビが有名になると同時に、結婚の噂が広まった。これは2人には思いがけないことだったらしい。当時の記事を読んでも、どこまでが真実なのか分からないし、恋愛感情があったかどうかも断定できない。
 後に、伏見自身が読売新聞の中邑宗雄に語ったところによると、大河内とそういう関係になったのは1930年のことで、しばらく一緒に住んでいたようである。しかし、大河内の親は伏見との結婚に反対し、別の結婚相手を用意した。肝心の大河内はというと、伏見のことを愛しながらも、家族の反対を押し切ってまで一緒になる気はなかったらしい。伏見は「乞食になっても二号にはなりたくないよ」と啖呵を切り、男のもとを去った。1万円の手切れ金を渡されそうになったときも、受け取らなかった。1932年6月の『サンデー毎日』には、別の女性と結婚した大河内のことを想い、伏見がさめざめ泣いているという記事が掲載されているが、真に受ける類のものではないだろう。とはいえ日活にとどまることには気詰まりを感じたのか、1933年に退社している。

 『御誂次郎吉格子』(1931年)は、フィルムがきちんと保存されている作品である。ファンを熱狂させていた頃の伏見の演技を確認することができる意味でも、こういう傑作が遺っているのはありがたい。原作は、吉川英治の鼠小僧もの。伏見姉妹が共演し、対照的なヒロインに扮している。無論、姉の直江が伝法肌のお仙、信子の方が清純派のお喜乃である。大河内傳次郎扮する鼠小僧は、道中の縁でお仙と関係を持つが、やがて気紛れの恋に飽き、春の若芽のようなお喜乃を見初める。お喜乃とその父親が落魄した原因が、かつて預かっていた公金を鼠小僧(つまり自分)に盗まれたことにあると知っては、ますます放っておけない。そこへ、お仙の兄で、金の亡者である仁吉が、お喜乃に絡んでくる。伊藤大輔監督ならではのストーリーテリングのうまさ、唐沢弘光のダイナミックなカメラワーク(というかカメラさばき)に、観る方もつい前傾姿勢になる。
 伏見直江も、鉄火女の純粋さと情の濃さ、惚れた弱みからこぼれでる色気が感じられて、素晴らしい。まさに当たり役だ。迫り来る御用提灯の網から愛する男を逃がすことを決意し、涙ながらに男に抱きついて言う、「女の一念! 逃げさせるとも......」の名台詞もキマっている。サイレントなのに、今にも声が聞こえてきそうだ。そして、「治郎さん、忘れさせないョ!」と言い残し、川に飛びこむ壮絶なラスト。これでお仙は、治郎のみならず、私たちにも忘れることのできないインパクトを与えた。結局、この映画で最も印象に残るのは伏見直江である。それにしても、これが公開されたのは1931年12月31日。つまり、お正月映画として公開されたのである。当時の大スターを起用した大衆映画の質に、今さらながら衝撃を受ける。

 トーキー時代の代表作『雪之丞変化』(1935年〜36年)では、雪之丞につきまとう悪女、お初を演じている。雪之丞に惚れ込み、可愛さ余って憎さ百倍の狂恋に落ちた女の屈折、卑劣さ、醜態を表現する上で、伏見は綺麗に見せようとか、いじらしく見せようという小細工を一切使わない。とにかく体当たりである。「あたしがどんな世界に生きている身か知らないお前でもあるまいに、十日先の二十日先のって、そんなことを楽しみに待っちゃいられないヨゥ!」「といって今さら、どうにも後へ退けないヨゥ!」などと言葉尻を強調し、雪之丞にぐいぐい迫るところも良い。恋をすると、「手段を選ばず手に入れる」以外の選択肢がなくなるヴァンプ(毒婦)らしい性格が滲み出ている。

 築地小劇場、サイレント映画で培った表現力が、戦後の映画界で活かされることはなかった。伏見は一座を組み、ハワイ〜アメリカ西海岸を巡演。その評判が上々だったことに気を良くし、今度は妹の信子と共に思い切って南米公演に繰り出す。が、これが受難の始まりで、金方にお金を持ち逃げされ、日本に帰れなくなる。先に帰国していた信子が送ったお金で帰国したのは、約8年後のこと。それからは流転の日々で、料亭を転々とした末、ようやく大阪にお店を構えることができた。「伏見」というバーで、伏見姉妹が切り盛りしていたこともあり、往年のファンが通っていたようである。趣味は競馬で、武邦彦のファンだった。

 『歴史と人物』(1971年12月号)の「伏見直江むかし語り」によると、ブラジルで辛酸をなめて帰国した後、山田五十鈴と原駒子に呼ばれ、料理屋で御馳走になったことがあるという。山田五十鈴は13才でデビューしたとき、先輩女優に意地悪されたところを、伏見に庇ってもらったことがある。それ以来、伏見のことを「姉さん」と呼び、慕っていた。

「苦労して帰って来たからって、ベル(山田五十鈴の愛称)と原駒がね、料理屋へ呼んで御馳走してくれたんです。そんなことしてくれたの、二人だけだった。でも、そん時ベルちゃんにいわれたんだ。......姉さん、もう二度と舞台へ出ようなんて思っちゃいけませんよって......もう、昔とすっかり時代が変わっちゃってるんだからってね。その言葉がずっしり応えてね」
(千谷道雄「伏見直江むかし語り」)

 この記事は、引退興行をしたがっている伏見が千谷道雄に、「先生、一つ口きいてくれませんか」とお願いするところで終わっている。これが奏功したのかどうかは分からないが、翌年、勝新太郎監督の『新座頭市物語 折れた杖』(1972年)に出演している。

 富士正晴は『大河内傳次郎』の中で、「直江・信子の両姉妹の生き方にわたしは大層魅惑を感じる。誰か作品としてくれないものだろうか」と書いているが、そう訴えたくなるほどの魅力が伏見直江という女優にあることは間違いない。彼女の姿が刻まれたフィルムには、驚くほどイメージをかき立てる力がある。これだけフィルムが傷んでいても、伝法肌の色気の何たるかが瞬時に電流のように伝わってくるのだから、一種の驚異である。
(阿部十三)


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伏見直江
[伏見直江略歴]
1908年11月10日、東京都深川に生まれる。父は役者の伏見三郎。妹の信子も清純派女優として人気を博した。3歳で初舞台を踏み、1924年に父が亡くなった後、河合武雄の紹介で築地小劇場に入団。小山内薫の指導を受け、女優として成長。1926年から帝国キネマで活躍し、1927年に日活へ移籍。伊藤大輔、大河内傳次郎と出会ったのをきっかけに、スター街道を突き進むが、1933年に退社。その間、大河内との恋愛騒動があった。戦後は一座を組んで巡業、映画にはほとんど出演していない。1982年5月16日死去。