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超能力映画 1970年代

2018.01.24
1960年代

 人の心を読み取って意のままに操る能力を持った子供たちを抹殺するために、ゴードン・ゼラビー博士が時限爆弾を教室に持ち込んで爆死したのは1960年のこと。ウルフ・リラ監督の『未知空間の恐怖/光る眼』の中での話である。その3年後には、ロジャー・コーマン監督の『X線の眼を持つ男』で、エグザビア博士が何でも透視できる点眼薬を開発し、甚大な副作用により悲劇的な末路をたどった。

 これらの映画に出てくるのは、魔法とは異なる超能力だ。魔法の場合はしばしば子供たちを喜ばせることもあるが、超能力はそうはならない。超能力者は人間の眼をしておらず、その得体の知れない特殊な力は、悲劇をもたらすものとして扱われる。それが一種の共通認識だったのだろう。しかし、旧ソ連の超能力者ニーナ・クラギーナやローザ・クレショーワが注目を浴びたり、ユリ・ゲラー現象が起こったことで、超能力への関心が急速に高まり、映画の世界にも様々な超能力者が出現するようになる。

ブライアン・デ・パルマ

 映画に出てくる超能力者は大きく四つに分類される。
 (1)宇宙・未来タイプ
 (2)悪魔・悪霊タイプ
 (3)人工・科学実験タイプ
 (4)先天性タイプ
 (2)の場合は、超能力というよりも魔力と呼ぶべきかもしれない。この時点では、(1)と(2)と(3)が主にSF、ホラーで描かれるばかりで、(4)を扱う映画はまだ成熟していなかった。『光る眼』の子供たちの力は先天的ではあるが、地球支配の意思を持つ何者かがインキュバス的な方法で人間の母体を借りて生ませた(1)の超能力者と言うべきだろう。
 しかし、ここにブライアン・デ・パルマ監督が登場し、スティーヴン・キング原作の『キャリー』(1976年)とジョン・ファリス原作の『フューリー』(1978年)を発表、大きな節目を迎えることになる。どちらにも(4)に該当する若者が出てきて、成長・覚醒し、その力を爆発させる。

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 シシー・スペイセクが主演を務めた『キャリー』は、ホラー映画に分類されているが、同級生にいじめられる女の子の孤独、狂信的な母親との悲しい関係がよく描かれている。この母親は娘の念動力を「悪魔の力」とみなすが、自身も予見的な力を示す。それがプロムに行く前、ピンクのドレスを着ているキャリーに向かって、「赤色ね。思った通りだわ」と言うところだ。母親は単に頭がどうかしているのではなく、ドレスを真っ赤にしてプロムから帰ってくる娘の姿が見えていたのである(母親役を怪演したパイパー・ローリーは、この台詞を変えようとした監督に抗ったと証言している)。
 『フューリー』にも親子が出てくるが、こちらは元諜報員の父親が超能力を持つ息子ロビンのことを愛し、理解している。しかし、ある日を境にその関係が断ち切られる。元同僚チルドレスがロビンを誘拐したのだ。父親は、ロビンを奪い返すために、国立研究所の女性スタッフや、超能力に覚醒した女の子ギリアンの助けを借りる。その間に、ロビンはチルドレスたちによる科学実験を経て、怒りの感情をコントロールできない恐ろしい超能力者に成り果ててしまう。終盤はやはり血みどろの世界である。

 『フューリー』は「実験に利用される超能力者」という深いテーマも内包している。特に、難しい立場に置かれた研究所の所長が語る台詞は、超能力映画の一つの世界観を示すものとして重みをもって響く。「ロビンやギリアンのような子は、未開人になら歓迎される。魔術師や預言者になれるだろう。だが文明社会は彼らを受けいれない。反対に異端者として殺してしまうのだ」
 デ・パルマ作品の超能力者はこの世界観の中に生きている。彼らはいわば日陰者で、迫害される立場にある。それがやがて強い力を身につけ、容易に相手の生死を左右できるほど優位に立つ。しかし、その力は平和的解決には向いていない。居場所がなく、普通とは違う「異端者」とみなされる超能力者の中に増殖するのは負のパワーであり、それは怒りの感情と直結し、己の人格を崩壊させながら、多くの死者を出さずにはおかないのだ。一種の暴力革命である。

宗教的要素

 ホラー映画の世界では、『エクソシスト』(1973年)、『オーメン』(1976年)、『サスペリア』(1977年)が公開されて大ヒットし、いわゆるオカルトが流行。この3作ではそれぞれ悪魔に憑かれた子、悪魔の子、魔女が人知を超えた魔力を示しているが、これらは1960年代に製作された『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)が蒔いた悪の種子と言えなくもない。つまり、まがまがしい(2)の典型であり、『キャリー』とは異なる。ただ、信仰、崇拝、神、悪魔を強く意識させる磁場を持つところは共通している。

 宗教、信仰が絡むと、超能力と魔力を分ける境界線は曖昧になりがちだ。例えば、ジャック・ゴールド監督の『恐怖の魔力/メドゥーサ・タッチ』(1978年)は、ホラーではないが、(2)と(4)の要素が混じっている。主人公のモーラーは元弁護士で作家。幼少期に狂信的なメイドに煩わされ、「この女を焼き殺して欲しい」と悪魔に懇願し、念動力に覚醒した。その超能力の使い道は、当然のごとく反宗教的な方向へと向かい、デモーニッシュな色合いを帯びる。
 モーラーの力には限界がなく、「私には災いを起こす力がある」「神に代わって汚い仕事をしている」などと語り、世界各地に(宇宙船にも)次々と大災害をもたらす。キャストはリチャード・バートン、リノ・ヴァンチュラ、リー・レミックという豪華布陣で、真に迫る演技はさすがだが、バートンとレミックは、それぞれ『エクソシスト2』(1977年)と『オーメン』の出演者でもあり、また、主人公の思想が反キリスト的なこともあって、(2)の色合いの方が強く感じられる。
 モーラーは病院のベッドの上で意識不明の状態でありながら念力を発揮するが、この設定はオーストラリアの映画『パトリック』(1978年)にもある。植物状態にあるパトリックは、目がぱっちり開いているので、より一層不気味だ。それにしても、(主人公の人物像は異なるが)似たような設定を持つ2作が同じ年に公開されたのは偶然の一致なのか、見えざる力のなせるわざなのか......。

 この辺りの映画を観ると、超能力者は覚醒、成長のドラマを経た後、負の方向へパワーを爆発させがちだが、時に大きな危機に立ち向かう究極の術として超能力を活用することもある。これは漫画や特撮ものでおなじみのパターンだ。大作映画では『スター・ウォーズ』(1977年)や『スーパーマン』(1978年)がその代表格と言えるだろう。それ以前に、小松左京原作の日本映画『エスパイ』(1974年)が、超能力による支配を企む男と戦う超能力者たちの愛と勇姿を描いていることも付記しておく。
続く
(阿部十三)


【関連サイト】
超能力映画 1980年代
『デッドゾーン』の世界