文化 CULTURE

「風博士」の挑戦 〜分析させないテクニック〜

2011.02.12
 風博士は慌て者で、ちょっとしたことですぐ狼狽し、そのたびに部屋中に竜巻を巻き起こす。ある日、17歳の可愛い花売り娘との結婚式に行くことを失念してしまった博士は、「POPOPO!」とシルクハットをかぶり直し、慌てふためき、そのまま一陣の風となってしまう。

 「TATATATATAH!」
 已(すで)にその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向う側に見失っていた。僕はびっくりして追跡したのである。そして奇蹟の起ったのは即ち丁度この瞬間であった。偉大なる博士の姿が突然消え失せたのである。
(『風博士』)

 70年前の昭和6年、坂口安吾が『青い馬』に発表したナンセンスな復讐譚「風博士」は、今なお読む者を狐につままれたような気分にさせる。平たく言えば意味不明。まるで作者の気の向くまま、思いつくまま、乱暴に話を進めているような感すらある。
 風博士の正体は何なのか、どうすればそれを論理的に説明できるのか、これまで研究者の間で幾度も論じられてきたが、どれもこれも徒労に終わったようである。著名な評論家、佐々木基一も論理的脈絡をたどることができず、「風博士の正体は要するに一陣の風にすぎなかったのだ」と述べざるを得ない無念さを訴えている。
 これを最初に評価した小説家、牧野信一も専ら意味のなさ、馬鹿らしさばかりに言及して、あえて分析することを避けている。どうやら「風博士」は風のような作品だ、とでも言って流しておいた方が無難なようだが、筆者としては、分析とまではいかないまでも少しばかり提言しておきたいことがある。

 この作品は、まず題名から「論理的」ではない。
 風博士ーーいかなる分析も拒否するような「風」という自然現象と、分析を旨とする「博士」という存在のミスマッチは、そのまま多くの人間が抱えている非合理主義的な面と合理主義的な面の相克を表している。そんな相反するものを内包した性格の深奥は、既成の言語ではどうにも表現しきれるものではない。その葛藤が「TATATATATAH!」や「POPOPO!」といった無茶苦茶な表記となって噴き出ているのだ。ここで「風」の一文字に託されているのは、人間の性格や行為のとらえがたさ、そしてそれを分析しようとすることの空しさ、滑稽さである。最後の禅問答のようなパラグラフがそのくだらなさを強調している。

 諸君、偉大なる博士は風となったのである。 果して風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。
(『風博士』)

 安吾はこの作品を執筆し終えた後、読者が頭を抱えている様を思って、ほくそ笑んでいたに違いない。
 文学研究というものは文学好きにとっては必ずしも大切なことではない。分析や深読みなどせず、疑おうとせず、肯定的に楽しむのが本当ではないかという考え方もある。安吾は「風博士」を以てーー彼らしい非常にシニカルな方法でーーそのことを私たちに伝えようとしたのだろう。「許容しなさい、分析なんて無駄だ」と。そのために安吾が我田引水的に用いたのは、ファルスという形式である。

 ファルスとは、人間のすべてを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。およそ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。
(『FARCEに就て』)

 私たちは「風博士」とどう向き合えばいいのか。荒唐無稽なファルスとして読み流し、「なんてヘンテコリンな小説なんだろう」という感想以上は持たないで済ませるのか、あるいは、もっと奥に何かがあるはずだと鼻を利かせるのか。分析のメスを入れたいという欲求を感じるか、感じないかーーその態度の違いこそが分析者とそうでない者のわかれ目だろう。
(阿部十三)


【関連サイト】
風博士(青空文庫)
坂口安吾デジタルミュージアム

【引用文献】
坂口安吾「風博士」(『坂口安吾全集 01』 筑摩書房 )
坂口安吾「FARCEに就て」(『坂口安吾全集 14』 筑摩書房 )

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