文化 CULTURE

2012年の読書録 安部ヨリミ、安部公房、安部ねり

2012.12.29
 2012年は安部ヨリミの『スフィンクスは笑う』が復刻され、安部公房の「天使」が発見された年である。安部公房が亡くなったのは1993年のこと。訃報に接した当時、私は学生だった。同級生に安部公房の熱狂的ファンがいて、「どれだけ安部公房のことが好きか」という話を延々聞かされたのを昨日のことのように覚えている。
 あれからもう20年も経つのか、と時間の隔たりにぞっとさせられるが、安部の小説を読み返しても「懐かしい」という感覚にはならない。いついかなる時に読んでも、読者を包み込む空気はクールで、一定の鮮度が保たれていて、なおかつ不穏である。
 今、安部公房研究はどの程度進んでいるのだろうか。没後20年の2013年は、そちらの方にも注目したいと思っている。

安部ねり『安部公房伝』

 2012年の読書は、安部ねりの『安部公房伝』から始まった。これは一人娘にしか書けないエピソードを盛り込んだ評伝である。いわゆる普通の伝記とは異なり、作家論、言語論を交えたランダムな構成で、肩すかしを食らったところもあるが、「作家誕生」の項は興味深く読んだ。

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安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』
 2012年2月には、安部公房の母、安部ヨリミの『スフィンクスは笑う』が講談社文芸文庫で復刻された。1924年に刊行された知る人ぞ知る作品である。安部ヨリミはこれ1作を書いたきり、文筆生活に背を向け、家庭の人になった(執筆中、お腹の中には安部公房がいた)。この小説について、『安部公房伝』では、次のように記されている。

「『スフィンクスは笑う』は五人の男女の愛憎を描いた恋愛小説で始まるが、途中で主人公が入れ替わる。後半、女性は妊娠し、子供の父親ではない実直な男と結婚する。しかし、子供が生まれたとたん夫は豹変し、生まれた子供を壁に投げつけ、妻を引きずりまわす恐ろしい暴力を振るう。主人公は『敗残した』自分を受け入れ、生きていくことを決意する」

 訂正しておくと、「生まれた子供を壁に投げつけ」というのは「踏みつけ」の誤りである。何にしても、重苦しそうな作品である。......が、読んでみて驚いた。面白い。しかも最近書かれた小説といわれても違和感を覚えないほど文章が若くて、みずみずしい。恋に悩み、人生に悩み、決意と葛藤を繰り返す女性の心理や生理をここまで活写した小説が当時どれくらいあっただろう。

 新妻の道子が親友の安子に宛てた手紙から物語は始まる。道子は兼輔と恋愛結婚したものの、半年経った今、自分の生活に疑問を抱きはじめている。道子は自分のことを「恋の勝利者」と書きつつも、「倦怠が、心の底から湧き上って来るのを感じます」とも書く。
 しかし、実は、道子は「恋の勝利者」でも何でもなかった。この結婚には彼女の知らない秘密があったのである。......

 形式はユニークである。書簡体形式かと思えば、三人称になり、最後は手記で終わる。サスペンス的な要素を盛り込んだり、心理が二転三転したり、主人公が入れ替わったり、安易な恋愛小説的展開を避けるように意表をつくプロットを組み込んだり、という仕掛けも効果的である。そして何より精緻を尽くした女性心理の描写が素晴らしい。後半の主人公、安子の心理への切り込み方にも容赦がない。都会には人間らしい生活はないと断じ、高邁な決意をもって北海道で貧農として暮らしはじめたお嬢様育ちの彼女が、すぐ挫折感を覚え、激しい後悔に苛まれる心理的変化には、迫真のリアリティがある。

 これを読んだ人の多くは、有島武郎の『或る女』や『カインの末裔』を思い浮かべるだろう。いかにも「活写」という言葉にふさわしい女性描写を掌中に収めている点でも、『或る女』に近いものを感じさせる。ただ、安部ヨリミは有島の模倣者ではない。彼女の場合、思想やメッセージ以上に、プロットを重視しているように見える。登場人物たちは、いわば白樺派のデフォルメだし、人間観もシニカルである。主張ということに関していえば、目新しさはない。それよりも安部ヨリミの野心は、小説として新しいもの、興味をひくもの、魅力的なものを書くことにある。主張が第一ではなく、意匠が第一なのである。

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安部公房「天使」
 『新潮』に安部公房の「天使」が掲載されたのは2012年11月のこと。キャッチコピーは「新発見・幻の最初期小説」。これはニュースになり、書店から『新潮』がなくなる、という現象が起きた(その後、増刷されたようである)。
 「天使」の執筆時期は1946年11月とされている。1946年11月5日の高谷治宛の手紙に、「船の中から『天使の国』と言ふ短編を書き始めてゐる。それは或る狂人が、ふとした事で病院から逃げ出す。そして、其処を天使の国だと思ひ込むのだ」と書かれているので、間違いはないだろう。

 「天使」の主人公は、「従来狂人と言われた汚名を恢復する為にも、私は此の宇宙の中央に、鉄格子、つまり未来に向って静座する事に決心した」つもりでいる。ここで注意しておきたいのは、これがあくまでも天使の話として書かれていて、どこにも精神病院とは明記されていないことである。安部は「或る狂人が、ふとした事で病院から逃げ出す」と手紙に書いたが、そういう風に読まず、いびつなメルヘンとして無理矢理読み通すことも可能なのである。いかようにでも読むことの出来る、奇妙な魅力に包まれた作品だと思う。

 解釈の仕方はいろいろある。「逆説的な生命賛歌」(加藤弘一)として読む人もいる。私自身はこれを企みを隠した小説とみなしている。幻像のような装いをはぐことが肝要だ。たとえば、主人公が病院から出て、追っ手から逃げている途中、こういう場面がある。

「奇妙な事に体がこわばって動かないのだ。不思議に思って良く良く考えて見ると、成程、私は目に見えぬ強い腕にしっかと押えつけられているのだった。しかも、是なら動く筈はないと思われる程、しっかりとした強い力で」


 この後、主人公は近くに真紅の花があるのを見つける。「強い力」の存在には、これ以降言及されない。

「何時しか其の不吉な花に誘われて、私は枝元から手折って顔をよせ、静かにその香を求めても見た。けれどその花は唯冷いばかりだった。目にも耳にも鼻にも答えようとはしなかった。私はそれを上衣のボタン穴に挿し、丁度心臓の上に其の炎が凍りついている様な具合にした」

 おそらく主人公は追っ手の「強い腕」に捕まったものの、怪我をさせ(あるいは死なせ)、その血を浴びた赤い花を胸のボタンに挿したのである。だから、この後出会った少年(小天使)は、主人公がつけている花を見て恐怖を覚える。主人公も全く自覚がないわけではないようで、少年に向かってこんなことをいう。

「驚怖の花を胸に飾って、恐ろしい死の告げを訪れの標にし乍ら、今迄君の驚きに気付かず、説明もしなかったなんて僕もよくよくだ」

 裏を読めば、なんとなく自分のしでかしたことに自覚はありつつも、それをぼかして書いた病人のアリバイの書、という風にみることも出来る。短い物語の中に、読者の解釈を多方向に広げさせる仕掛けがちりばめられているので、読後感は人によってばらばらになるだろう。安部公房のファンなら読んでおいて損はない。

 戦後の一時期、北海道にいた安部は、この「天使」を書いた後、上京する。1947年春には、中野の喫茶店「クラシック」で出会った山田真知子(安部真知)さんと結婚。当時はひどく貧しく、2人で友人宅を居候して回っていた。
 余談だが、私の祖母は、真知子さんと豊後高田時代からの幼なじみだった。大分から上京し、結婚して中野にいた祖母は、安部夫妻を迎えて、少しの間、一緒に住んでいた。芥川賞を受賞する前の話である。後日、祖母は真知子さんが描いたひまわりの絵をお礼にもらったが、その絵はどこかへ行ってしまったという。そんなわけで、安部ファミリーゆかりのものは、私の家にはひとつも残っていない。


[2012年読書録]
安部ねり『安部公房伝』(新潮社)
大倉燁子『大倉燁子探偵小説選』(論創社)
安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』(講談社文芸文庫)
ガストン・バシュラール『火の精神分析』(せりか書房)
ガストン・バシュラール『科学的精神の形成』(平凡社)
古井由吉『仮往生伝試文』(河出書房新社)
木々高太郎『人生の阿呆』(創元推理文庫)
ボワロ&ナルスジャック『技師は数字を愛しすぎた』(創元推理文庫)
伊藤計劃、円城塔『屍者の帝国』(河出書房新社)
福田恆存『福田恆存評論集第19巻 シェイクスピア解題』(麗澤大學出版會)
池島信平『雑誌記者』(中公文庫)
フレッド・ジンネマン『フレッド・ジンネマン自伝』(キネマ旬報社)
ミシェル・ビュトール『ディアベリ変奏曲との対話』(筑摩書房)
バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)
ゾフィア・ヘルマン他編『ショパン全書簡 1816〜1831年 ポーランド時代』(岩波書店)
尾埜善司『指揮者ケンペ』(芸術現代社)
安部公房「天使」(『新潮』2012年12月号)
ドリュ・ラ・ロシェル『秘められた物語/ローマ風幕間劇』(図書刊行会)

(阿部十三)

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