広津柳浪 (2) 〜もたれる女たち〜
2021.09.15
「河内屋」
広津柳浪は善悪を明確に分けず、勧善懲悪を期待させない。「河内屋」にはその特徴がよく出ている。「河重」の異名を持つ重吉とお染は愛のない結婚をした夫婦である。お染は、かつて重吉の弟の清二郎と惚れ合っていた。その3人が同じ屋根の下に住んでいる。そこへ重吉の愛人お弓が住み着くようになる。お染と、お染を純粋に想い続ける清二郎は哀れな被害者だ。誰もがそう思う。
しかし、この小説の中で真に同情すべきは重吉である。彼はお染の姉お久と結婚するはずだったが、お久が病死したため、親の意向で、妹のお染と結婚した。お染は病弱なことを理由に、重吉と同衾することを避けている。重吉は「その気になってくれないか」と言うが、お染は聞く耳を持たない。おまけに、重吉は穀潰しの清二郎の世話までしている。しかも、お弓は二枚目の清二郎に惚れていて、重吉の目を盗んで彼のことを誘惑する。重吉にとっては踏んだり蹴ったりの環境なのだ。
「河内屋」では人物の姿勢も細かく描写されている。描写というよりは、動作の指定と言ったほうがいいかもしれない。読んでいると、まるで舞台を観ているかのような気分になる。
「河重は今日も昨日から酒に浸って、下谷同朋町の待合桜家の奥座敷に、夢とも知らず現とも知らず、眼ほどには体を据えかねて、枕を呼んで横になって居る。傍には此家の娘のお弓が、此も眼の縁に酔を帯び、少し膝を崩して、両手を背後に支(つ)いて反身の体を寄せ掛け、小楊枝を噛砕きながら、眼を斜めにして河重の顔を見て居る」
(「河内屋」)
柳浪作品では、「寄せる」、「もたれる」、「すがる」、もしくは、それに類する表現が効果的に用いられている。例えば「今戸心中」では、愛する平田に去られた吉里が箪笥にもたれる描写が繰り返される。その直後、彼女は好きでもない善吉を情人にする。何かにもたれるのは、いわば誰かしら相手を求めていることのサインである。お弓も吉里も一人でいられず、男のそばに身を置く。そこから事件が起こるのだ。
「雨」
先に、柳浪の全盛期は明治29年前後と書いたが、創作活動のピークをすぎた頃、明治35年に書かれた「雨」も傑作である。タイトル通り、雨が延々と降っている。おそらく日本文学史上、最も暗くて惨めで忌まわしい雨の描写ではないだろうか。読んでいるだけで、湿気に覆われたような心地になる。私はこれを読んだことで柳浪に惹かれた。
若い夫婦、吉松とお八重は貧民窟の長屋に住んでいる。大工の吉松は、止まない雨のために仕事にありつけない。そこへ典型的な毒親というべきお八重の母親、お重が無心にやってくる。お八重はかつてこの母親のエゴの犠牲となり、体を売らされていたことがある。邪悪な鬼婆のしつこさに困り果てた吉松は、恩のある親方から預かっていた仕立物を質に入れ、お金を工面する。こうして親方への体面を失った吉松は、お八重と手を取り合い、行方をくらます。
松原岩五郎の『最暗黒の東京』を地で行くような舞台である。意表をつくような結末はない。悲惨小説らしい凝ったプロットもなく、予定調和の中、戯曲のように会話を重ねて物語が進む。行方をくらます夜にようやく雨が上がる皮肉さもありふれている。登場人物の役割がもつれるような混沌としたところもない。ここにあるのは劇的な悲惨さではなく、リアルな悲惨さだ。その点では、自然主義の作風に近い。ただ、自然主義文学とは比較にならないほどの情緒がある。夫婦の会話からにじみでる情感の豊かさは、他の作品を遥かにしのぐ。永井荷風が崇拝し、弟子入りを志願したのも分かる。
(阿部十三)
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