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高峰三枝子 〜湖畔の宿に灯る憧憬〜

2013.08.29
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 高峰三枝子は筑前琵琶の高峰流宗家、高峰筑風の長女として生まれた生粋のお嬢様である。17歳の時、父親が亡くなり、家族を養うために映画界入りを決意。1936年に女優デビューし、やがて昭和を代表する名女優になり、半世紀以上にわたって活躍した。「歌う女優」としても有名で、「山の淋しい/湖に/ひとり来たのも/悲しい心」の歌詞で知られる大ヒット曲「湖畔の宿」は彼女の持ち歌である。

 高峰は新人時代から仕事に恵まれていた。松竹の名匠、島津保次郎監督の作品『朱と緑』、『婚約三羽烏』、『浅草の灯』(以上、全て1937年)に起用されていることからも、その厚遇ぶりが窺える。さらに、『浅草の灯』で披露した歌が注目され、コロムビアからスカウトの声がかかり、歌手デビューまで実現。「宵待草」、「純情二重奏」などのヒットを飛ばした。幹部女優に昇格したのもこの頃だ。順風満帆なキャリアといえる。
 そして、とどめは『暖流』(1939年)。高峰の役は、大病院の院長令嬢。まさにうってつけの役である。素地から染み出てくる清らかさと愛らしさ、ブルジョア的な雰囲気、プライド、品位。そういったものが綜合された役を、高峰は鮮やかに演じ切った。この映画をきっかけに共演者の水戸光子もスターになったが、その健気なキャラクターや親しみやすい庶民的な魅力がクローズアップされたのも、高峰の存在があってこそだろう。デビュー時は「泥沼に花を投じた」と新聞に書かれたようだが、そんな心配をよそに、高峰は映画界で美しく花開いたのである。

 「女性版・坊っちゃん」ともいわれる清水宏監督の『信子』(1940年)も良いが、それより忘れがたいのが小津安二郎監督の『戸田家の兄妹』(1941年)。この作品では、父親が亡くなったことで家が傾き、老母と共に、兄や姉の家をたらい回しにされる不憫な末娘を好演。彼女自身、満腔の共感を以て演じていたのではないか。お嬢様で品が良く、それでいて、根が明るくてお転婆なところも高峰そのもの。当初から彼女を想定して書かれた役、と思いたくなるほどだ。佐分利信との息もピッタリで、微笑ましい兄妹感がにじみ出ている。

 戦前に活躍していた女優が戦後に消える、という例が珍しくなかった中、高峰三枝子は消えるどころか、ますます存在感を増していった。少女時代に琵琶、長唄、仕舞、茶道、習字、三味線、ヴァイオリンを習っていたことで備わった素養も、彼女の強みだった。

 1940年代後半には、いわゆる「歌謡映画」で大スターの地位を確立。1950年代は妻役や母親役を意欲的にこなし、1960年代からは『熱帯魚』(1960年)を皮切りにテレビドラマにも出演した。1968年には「3時のあなた」の司会者に就任。視聴率が取れないといわれた時間帯にもかかわらず、誰もが知る人気番組となったことは周知の通りである。1970年代には市川崑監督の『犬神家の一族』(1976年)で主演(といっても差し支えないだろう)を務め、1980年代には国鉄の「フルムーン」のCMに上原謙と共に出演。「フルムーン」では、入浴シーンの豊満なバストが大きな話題を呼んだ。

 「歌謡映画」と称される『懐しのブルース』(1948年)、『別れのタンゴ』(1949年)、『想い出のボレロ』(1950年)、『情熱のルムバ』(1950年)の4作品は、今観てもなかなか面白い。とりわけ『懐しのブルース』、『別れのタンゴ』は秀作。前者は、没落した良家の子女が意を決してキャバレーの歌手になり、そこで出会った男(上原謙)と恋に落ちるが、実は男は結婚していた、という話。センチメンタルなメロドラマの中に、名曲を巧みに織り込み、華やかなファッションも盛り込んで、観る者を魅了する大衆映画だ(上原謙の役どころは、後年の『夜の河』をどことなく彷彿させる)。
 後者は、レコード会社の人間にいいくるめられて貧しい作曲家(若原雅夫)の曲を自作の曲ということにしてーー要するに盗作してーー人気歌手になったお嬢様の話。激怒した貧しい作曲家は彼女を罵倒し、その顔に傷をつけてしまい、刑務所へ。服役を終えた彼は、お嬢様の世話を受け、やがて2人は恋に落ちる。と、まあ、およそ現実にはあり得ないメロドラマなのだが、佐々木康の職人的演出のおかげで、きれいにまとまっている。

 いずれもラストで失った恋を想い、涙を目に浮かべながら歌う高峰三枝子の姿が宝石のように美しい。ただ美しいだけでなく、「結果的に」ではあるが、お嬢様が恋に溺れず仕事に生きる道を選んでいるところも、これらの作品に共通している。その点、「戦後」を象徴する映画と評することも出来る。

 「歌謡映画」でもないし、秀作と呼べるほどのものでもないが、吉村公三郎監督の『嫉妬』(1949年)も、「戦後」の女性の在り方を問う作品である。従順な奴隷状態にあった妻が、支配的な夫(佐分利信)に別れを告げて自立する話で、慌てふためく夫の滑稽さが容赦なく描かれている。この作品の欠点は、ラストで二枚目記者(宇佐美淳)がプロポーズするシーンである。これにより安っぽい不倫映画的趣が出てしまい、女性の自立が何やら建前的なものになり、むしろ捨てられた夫の方に同情が向きかねない、という事態が生じる。ただ、「結婚行進曲」と「葬送行進曲」を組み合わせた吉沢博の音楽は実にユニーク。これだけでも音源化してほしいくらいだ。

 私自身は、戦前の高峰三枝子に陶酔する者である。彼女が亡くなった後に刊行された『永遠の大女優 高峰三枝子』(1991年)の表紙には、「昭和の映画史を彩った大輪の薔薇」というキャッチコピーが載っているが、大輪の薔薇になったのは戦後以降のこと。『暖流』や『戸田家の兄妹』の頃の高峰には、どちらかといえば白い花を咲かせる高山植物のようなイメージがあった。それも、とびきり高潔で、愛らしく、謙虚でありながらも内に溢れる気品が自ずからこぼれ出てしまうような白さである。彼女は「高峰」の名そのままに高嶺の花であった。

 最後に。
 1956年、高峰はコンサートの最中に声が出なくなるアクシデントに見舞われたが10年後に歌声が復活、それ以降、歌手として歌い続けた。数あるヒット曲の中でも、彼女が歌う「湖畔の宿」は絶対的な人気があった。戦中、この歌を心の支えにして生きていた兵士が数多くいたのである。ある若者は、こんなことをいい残して出征したという。「お国のために死ぬことは納得いかないが、高峰三枝子のような美しい日本女性を守るためにならば死ねる」ーー高峰は特攻隊を慰問したことを思い出しながら、亡き兵士や遺族のために「湖畔の宿」を歌い続けた。その歌と歌声は、戦争を体験した世代の人にとって、特別な重みを持っていたのである。
(阿部十三)


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高峰三枝子
[高峰三枝子略歴]
1918年12月2日、東京生まれ。父は筑前琵琶の高峰流宗家、高峰筑風。東洋英和女学院卒業。当時から美人として有名で、慶大生たちが近所をうろついていたという。父が急逝した後、女優を志し、1936年に映画界入り。瞬く間にスターの座に。1946年、英文雑誌を発行する実業家、鈴木健之と結婚(1954年離婚)。1949年9月、長男誕生。戦後も高い人気を維持し、数々の名作に出演した。歌手活動にも意欲的で、喉のトラブルに見舞われながらも克服し、聴衆を魅了した。1990年5月27日、17時30分死去。71歳だった。