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『暗闇にベルが鳴る』 〜その電話に出てはいけない〜

2016.05.05
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 『暗闇にベルが鳴る』は1974年に公開されたカナダの作品で、原題は『Black Christmas』。クリスマスに女子寮で起こる陰惨な連続殺人を描いたスラッシャーものだ。今でもクリスマスにはこの映画を観るというファンが少なからずいるらしい。主演はオリヴィア・ハッセー。ほかにマーゴット・キダー、アンドレア・マーティン、キア・デュリア、ジョン・サクソンなどが出演している。

 クリスマスの夜、ベルモント街6番地にある女子寮でパーティーが行われている。その様子を外から見ている者がいる。誰なのかは分からない。何者かは女子寮の壁をよじのぼり、屋根裏部屋に忍び込む。そして屋根裏から廊下におり、寮内を歩き始める。何ともドキドキさせる序章だ。

 パーティーが終わった頃、寮の電話が鳴る。電話に出たのは寮生のジェス(オリヴィア・ハッセー)。受話器の向こうから、何やら呻き声が聞こえる。このような電話は以前にもかかってきたことがある。ジェスは「またかかってきたわ!」と女子たちを呼ぶ。電話を囲み、受話器の向こうの声に耳を傾ける女子たち。電話の主は、不気味な奇声と卑猥な言葉を浴びせ、最後に「お前たちを殺す」と言って電話を切る。女子たちは気味悪がるが、バーブ(マーゴット・キダー)は「都会じゃこんな電話は毎日よ」と一蹴する。

 その後すぐに第一の犠牲者が出る。殺人鬼は死体を屋根裏部屋へ持って行く。寮内の誰もそのことに気付かない。まさか屋根裏に誰かがいるなどとは考えもしない。このサイコキラーはそういう盲点を利用し、殺人を繰り返していく。時間の経過で言えば、1日と数時間のうちに起こる話である。

 オープニングをはじめ、電話のシーンや殺害のシーンで流れる讃美歌が忘れ難い。その美しい合唱と対比される形で殺人鬼の残忍さがより際立ってくる。笑いやユーモアがあちこちにちりばめられているのもミソで、それがよけいに殺害シーンでの緊張感と恐怖感を高める。血が派手に飛び散るカットをあえて見せず、ここぞというタイミングで血まみれの死体を一瞬だけ見せるやり方もうまい。その一瞬のカットがいやでも脳裏に焼き付く。

 監督はボブ・クラーク。『ポーキーズ』(1982年)を撮った人だが、元々はホラー映画を得意としていたようである。この手の作品の生命線とも言えるディテールへのこだわりとテンポの良さに、センスがあらわれている。むろん、監督だけでなく、犯人を見せずにストーリーを牽引する脚本のロイ・ムーア、不穏な音響や受話器の向こう側にいる殺人鬼の奇声を作り出したカール・ジットラー、随所に一人称視点を採り入れた撮影のレジナルド・H・モリスの功績も見逃せない。

 スラッシャー映画の元祖と言うと語弊があるかもしれないが、後世に大きな影響を及ぼしたことは間違いなく、味気ないリメイクをはじめ、似た系統の作品は数多く作られている。例えば、有名どころではジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(1978年)、マニアックなところではデヴィッド・ヘス監督の『to all a GOODNIGHT』(1980年/日本未公開)が同系統と言える。あまり知られていない後者は、愛らしいジェニファー・ラニヨン主演作。クリスマス休暇中、サンタが女子寮(及びその周辺)で男子も含む若者たちを次々と殺す話で、音楽が仰々しく、テンポが悪く、怖さは全くない。あと、ついでに付け加えておくと、バズ・キューリック監督の『のぞき魔!バッド・ロナルド』(1974年)というカルト作もある。これは『暗闇にベルが鳴る』と同年公開なので「影響を受けた」わけではないと思うが、「隠し部屋」に異常者が潜むという設定が出てくる。

 逆に、『暗闇にベルが鳴る』に与えた影響という点では、人物の影の使い方、寮生がめった刺しにされるカット、片目のクローズアップ、一人称視点など、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(1960年)やマイケル・パウエルの『血を吸うカメラ』(1960年)を彷彿させる映画術が盛り込まれている。受話器から聞こえてくる呻き声の不気味さは、ジャック・ターナーが演出した『ミステリー・ゾーン』のエピソード「真夜中に呼ぶ声」(1964年)を思い出させる。しかし、それらは単なる模倣では終わっていない。あくまでもボブ・クラーク独自のやり方で、恐怖の表現を発展させようとしている。そんな気概が感じられるところも好もしい。ダリオ・アルジェントの『わたしは目撃者』(1971年)やトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』(1974年)にも同様のことが言えるだろう。

 さて、ここからは結末にもふれるので、まだ映画を観ておらず、誰が死ぬのか、誰が犯人なのか知りたくない人は、読まない方がいい。

 『暗闇にベルが鳴る』の舞台は、既述したようにベルモント街6番地の女子寮だ。私見では、この「6」はただの数字ではなく、映画の中で意味を持っている。例えば、劇中、殺人鬼が女子寮の電話を鳴らすのは6回。ラストシーンで延々鳴り続ける電話が6回目だ。殺人鬼が殺した人数も6人である。クレア(寮生)、マック夫人(寮母)、バーブ(寮生)、ジェニングス(警官)、フィル(寮生)、そして公園で殺された少女ジャニス。殺人鬼がジェニングスとジャニスを殺める場面は出て来ないが、犠牲者と考えるのが自然である。

 電話はどこからかけられていたのか。映画ではさりげなく見せているだけだが、寮母マック(マクヘンリー)夫人の部屋からである。夫人の部屋には、寮の居間と廊下にある電話とは番号の違う電話が置かれている。殺人鬼はたびたび屋根裏からおりてきて、マック夫人の部屋に侵入し、電話をかけていたのだ。「電話であんな奇声を上げているのに、寮生が気付かないのは不自然だろ」と突っ込みたくなる気持ちは抑えておこう。

 マック夫人をアル中にしたのは設定の妙としか言いようがない。この寮母の部屋には「マクヘンリー・シスターズ」と書かれた古いレコード・ジャケットが飾られている。これは過去の栄光の証(映画の中でも彼女は時折歌っている)。アル中になったのは、歌手時代に何らかの挫折を味わったためかもしれない。彼女は普段から大体酔っぱらっているため、不在時に電話をいじられても、「部屋の様子がちょっとおかしいぞ」とは思わない。殺人鬼はそこを利用している。このことからも、また、電話の内容でジェスの心理を揺さぶるやり口からも、殺人鬼が大胆かつ狡猾な人間であることが想像できる。度を越した異常者なのに、頭は回るのだ。その点では、これ以降のスラッシャー映画で定番となるタイプのサイコキラーのはしりと言える。

 注目しておきたいのは、殺人鬼が3回目の電話でジェスに「俺を止めてくれ、助けてくれ」と震え声で言う複雑な心理だ。これは狡猾さとは相容れない。どうやらこのサイコキラーの中では、完璧に犯罪を続けたいという欲求と、自分のしていることを見せたい、何なら自分を止めてもらいたいという欲求が絡み合っているらしい。電話をかけるのは相手の恐怖心を弄ぶためだけでなく、歪んだ存在誇示の心理のあらわれでもある。捕まらないことは、この犯人にとって一概に幸運とは言えない。しかし、気付かれない。最初に殺したクレアの死体を屋根裏部屋の窓辺に置いても、誰も気付かないのだ。

 犯人が誰なのかは最後まで分からない。『悪魔のいけにえ』に出てくるレザーフェイスの素顔が見えない不気味さも相当だが、『暗闇にベルが鳴る』では背格好すらはっきりと映されない。名前は「ビリー」なのか何なのか、その辺もぼかされたまま、観る者の想像力を刺激する。私自身は、クレアの父親が雪玉をぶつけられたとき、眼鏡を拾ってあげた青年がくさいと思っていたが、この映画はそういう陳腐な展開の上を行っていた。

 犯行動機が分からないのも怖い。精神に異常をきたした人間がクリスマスになぜか女子寮に忍び込み、ひたすら殺人を繰り返す。しかも寮内で殺人が行われていること、屋根裏に死体があることを、主人公たちは全く把握していない。これを観た人はしばらく電話に出たくなくなるだろうし、思わず天井の物音に耳を澄ませてしまうだろう。
(阿部十三)