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今も生きている『天井桟敷の人々』

2011.09.15
 『天井桟敷の人々』は第二次世界大戦中にフランスで撮られた。ナチスに占領されていた時代に、製作準備から3年以上かけ、製作費約16億円を投じ、時局に合わない娯楽大作を作り上げたのである。監督はマルセル・カルネ、脚本を手掛けたのは詩人ジャック・プレヴェール。このコンビによる作品はほかにも幾つかあるが、『天井桟敷の人々』はそれらの中でも頂点に位置するものだ。正直なところ、カルネは好きな監督ではなく、師ジャック・フェデーの才能を受け継がなかったように私には思える。ただ、この『天井桟敷の人々』と『悪魔が夜来る』は、役者やスタッフの力の大きさが尋常ではなく、別格とせざるを得ない。

 南仏ニース(表向きは非占領地域)に400mに及ぶ巨大なオープンセットを作り、パリの日射しの雰囲気を出すために建物に線影を施し、19世紀の「犯罪大通り」を再現したというエピソードはあまりにも有名だ。実際、そのセットの見事さは筆舌に尽くしがたい。「人は映画のためにここまで出来るのか」というある種の尊厳を感じさせるほどだ。それくらいリアルな生気を感じさせる舞台がそこに出現している。美術を担当したのはアレクサンドル・トローネル。ユダヤ人だった彼は撮影所から離れた山荘に隠れ、そこから現場に指示を出していたと言われている。

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 明日何が起こるか分からない、戦争で全てが壊れてなくなるかもしれないという中、これほどの大作を撮ろうという気力を支えたのは何だったのか。『天井桟敷の人々』について語る時、「戦時下にフランス人の不屈の精神を謳うことでナチス・ドイツへの抵抗を示した作品」と評する人は多い。確かにそれは真理の一面には違いないし、純粋に「傑作」である、という評価以上の付加価値をこの映画に与えているポイントでもある。ただ、そういう評は「ナチスがいたからこそ作り得た作品」という解釈にも転換出来る。私はあまりそういう視点で観ることを好まない。

 明日世界が終わる「かもしれない」からといって、人は簡単に会社や学校へ行くことをやめられない。また、人類の未来に対して警鐘を鳴らすような話題のみを求めることもない。「終わり」を意識することで、より自分の職務に燃える人もいるだろうし、より質の高い娯楽を求めだす人もいるだろう。この『天井桟敷の人々』で仕事をした人たちも、ナチスへの抵抗云々より、最後の日まで娯楽を求める人に最高の作品を提供することを使命として、団結し、全力を尽くした、というのが本当のところではないだろうか。もっとも、「使命」や「団結」というと物々しいが、そういう言葉から連想されるような、いかにも窮屈で肩肘張ったところがなく、むしろ解放感に溢れている点が『天井桟敷の人々』の凄さでもあることを強調しておきたい。

 映画の軸となる人物は5人。「犯罪大通り」で裸を売り物にする女芸人ガランス(アルレッティ)、パントマイムの天才バティスト(ジャン=ルイ・バロー)、看板に自分の名前を大きく載せたいという野心に燃える役者フレデリック(ピエール・ブラッスール)、「泥棒から人殺しまでなんでもするが、断頭台にかけられるまで堂々と生きる」と言い放つ悪党詩人ラスネール(マルセル・エラン)、金の力でガランスを囲うモントレー伯爵(ルイ・サルー)。彼らの人生が交錯することで多彩なドラマが生まれる。
 むろん、重要なのは彼らだけではない。バティストを愛する女優ナタリー(マリア・カザレス)、ナタリーの父親でもある劇団座長(マルセル・ペレ)、いかがわしい商人ジェリコ(ピエール・ルノワール)、宿屋のおかみエルミーヌ夫人(ジャンヌ・マルカン)ーー台詞のある人から通行人に至るまで、まるで今その世界で本当に生きているかのように精彩を放っている。

 ただ、私が『天井桟敷の人々』の面白さに気付いたのは、数回観てからである。今でもまだ魅力を汲み尽くしたとは言えないかもしれない。初めて観た時は、ジャン=ルイ・バローの神がかったパントマイムと、ラストの群衆シーンの迫力に目を見張らされたものの、この映画の魅力を確かなものとして感じていたわけではなかった。一番致命的だったのは、「絶世の美女」というふれこみで出てくるガランスを美しいと思えなかったことだ。だから劇場のボックス席にいるモントレー伯爵がバティストと共演しているガランスを見て、「あれほどの美女を見たことがあるか」と仲間に言う台詞が、まるで説得力を持たない。撮影当時、アルレッティは40代半ば。初めて観た時まだ子供だった私がそこに偶像を見ようとしても限界がある。しかし、彼女に「美」を感じなければ、この映画は成り立たないのだ。

 それから10年後に再見し、第1部「犯罪大通り」と第2部「白い男」でのガランスの役作りの違い(表情、仕草、喋り方、声音)に気が付いた。第2部のガランスの美しさは、確かに年齢を超越している。最初はその違いすらも目に入っていなかった。要するに私は何も観ていなかったのだ。
 フレデリック、ラスネールなどのキャラクター造型の細やかさにも溜め息が出た。ジャック・プレヴェールの魔法のペンにかかると、野心家も浮気者も卑しき者も臆病者も犯罪者もその人生を精一杯生きている存在として肯定され、生命感が生まれる。粋でありながらも鼻につかない台詞もたまらない。「恋なんて簡単(C'est tellement simple, L'amour)」などなど魅力的な名台詞が次から次へと出てくる。
 その5、6年後、3度目の鑑賞で、役者の演技の細かいところまで目がいくようになった。いかにも自然に躍動しているエキストラにも魅せられた。こんな調子で観るたびに違う刺激があり、感動が深まっていく。噛めば噛むほど味が出ると言うが、それは『天井桟敷の人々』にぴったりの言葉だ。これからもきっとこの映画には驚かされ続けることだろう。
(阿部十三)


【関連サイト】
マルセル・カルネ
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