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コリンヌ・リュシェール 〜恋と名画とナチスの影〜 [続き]

2012.05.06
 次作『美しき争い』は、『格子なき牢獄』の成功を受けて制作された。内容は姉妹の愛憎もの。共演は同じくアニー・デュコー、監督はレオニード・モギーである。コリンヌがアニー・デュコーと手を取り合って、街を駆け抜けるシーンが印象に残る。全体としては悲劇的な話だが、このわずか1分間、2人は演技の世界を逸脱している。スクリーンを飛び出して、どこかへ遊びに行きそうな気配がある。その奔放さが爽快だ。
 ロケ地に使われたのはニース。そこで彼女は『いれずみの男・ラファエル』を撮っていた監督、クリスチャン=ジャックと出会う。後にジェラール・フィリップ主演の『花咲ける騎士道』を撮る人である。『幻想交響楽』『パルムの僧院』『ボルジア家の毒薬』『黒いチューリップ』も彼の監督作だ。娯楽映画の巨匠であり、女性関係の方も華やかだった。結婚した相手にはルネ・フォール、マルティーヌ・キャロルなどがいる。若くして人気女優になったコリンヌには男との噂が絶えなかったが、彼女が初めて愛したのはこの監督だったといわれている。

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 1938年から1940年にかけて出演した作品は、『私はあなたを待つ』『最後の曲がり角』『第三の接吻』『闖入者』。『格子なき牢獄』を超える作品はなかった。この期間、交際相手として噂になったのは、大富豪でプレイボーイとして有名なアリ・カーン、ムッソリーニの片腕といわれた外務大臣ガレアッツォ・チアノである。1940年6月のパリ陥落後は、女優の仕事をしていない。結核を患ったり、父親の仕事の手伝いをしたり、結婚したり、出産したり、と様々なことが重なったためである。

 結婚相手はモロッコ出身の貴族ギイ・ド・ボワサンという男。素性ははっきりしないが、ジャン・リュシェールが創刊した夕刊紙『新時代』の出資者の一人であることが明らかになっている。おそらくその関係で知り合い、結婚に至ったのだろう。コリンヌの愛は元々冷めていたようで、「ラ・メール」などで知られるシャンソン歌手のシャルル・トレネ、スキー選手のエミール・アレなどと浮き名を流した。トレネは同性愛者だったが、ドイツ占領下のフランスで安全を確保するために(ユダヤ人ではないかという噂を打ち消すために)、ドイツ軍に顔が利くコリンヌと付き合っていた、と見られている。

 ちなみに、『新時代』は対独協力の急先鋒に立つ有力紙。ジャン・リュシェールはこれによりドイツ占領下のフランス言論界で最も影響力を持つ存在となる。その事務所で秘書を務めていたのが、シモーヌ・シニョレ。シニョレの証言によると、事務所にはドイツ軍に悩まされている市民からの嘆願が多く寄せられていたという。その都度、ジャン・リュシェールは相談に乗り、「任せなさい」と言い、フランス人とドイツ軍との悶着をなだめるために奔走したという。シニョレは回顧録の中でこう問うている。「私はどれくらいの人がこの事務所を訪れたか、この目で見ている。彼らは、リュシェールが死刑を宣告された時ーーその刑は当然のものだったかもしれないけれどーー彼に何かしてあげただろうか」

 コリンヌがナチス高官オットー・アベッツの愛人だったという説は、今なお根強く残っている。アベッツは父親ジャンの友人であった。敵国の人間でありながら、フランス文化に理解があり、フランス語も堪能で、狂信的な親衛隊がフランスで破壊行動を取ったり、無益な血を流したりしないよう尽力した人物とも評されている。アベッツには何人か愛人がいたようだが、コリンヌがその一人だったとは誰にも断言できない。
 1943年、コリンヌはオーストリア人の空軍将校ウォルラッド・ゲルラッハと出会う。2人は恋に落ち、やがてコリンヌは娘ブリジットを身籠る(出産は1944年5月頃)。ゲルラッハの娘であるという証拠はないが、交際時期から2人の子とみて間違いないだろう。

 1944年8月のパリ解放後、コリンヌは父親に連れられてイタリアへ行く。ジャン・リュシェールには「対独協力者」(コラボレイター)の立場からフランスを守った、という自負があった。しかし、身の危険を感じてもいた。イタリアのメラノ(ミラノではない)でパルチザンに捕らえられた父娘は、そのまま拘留され、やがてフレヌ刑務所に送られる。ドイツ人の妾であったか、ドイツ軍の手先であったかーー執拗な尋問がコリンヌを苦しめた。

 国内では「コラボレイター」撲滅の風潮が広まっていた。そんな中、ジャン・リュシェールは銃殺された。1945年1月15日のことである。彼は処刑の際、目隠しを拒み、「フランス万歳」と叫んだという。
 まもなくコリンヌの裁判がはじまった。検事は断定調で「フランスの女性たちが戦い、苦しみに喘いでいる時、お前はドイツ人と浮ついた生活を送っていた」と糾弾した。判決は1946年6月に下された。国家侮辱罪により10年間の市民権剥奪。メディアには「オットー・アベッツの愛人」「ナチの高級売春婦」と書かれ、そのイメージが広まった。
 判決後、結核の療養に専念していた彼女のもとに映画出演の依頼が舞い込んだが、それらは全て横槍が入ったため企画倒れに終わった。売国奴「リュシェール」の名前は禁句になったも同然だった。

 1949年4月にはイタリアの新聞に死亡記事が載る。実際はニースの病院で療養中だった。彼女はまだ女優としてカムバックする夢を捨ててはいなかった。その計画は『格子なき牢獄』のレオニード・モギー監督によって実現されるはずだった。モギーは新作の主演女優にコリンヌを想定していたのである。が、コリンヌの病状は悪化の一途を辿っていた。無理に退院した彼女は、1950年1月22日、パリの道端で血を吐いて倒れているところを発見された。病院に担ぎ込まれた時にはすでに息絶えていた。彼女の死については、獄中死したと書かれているものもあるが、事実無根の風説である。

 コリンヌはバヌー墓地に眠っている。その敷地はずっと枯れ草しかない状態だったが、今は墓石が置かれているようだ。その墓を訪れるフランス人は、今日、どれくらいいるのだろう。もしかするとコリンヌ・リュシェールという名前自体、忘れられているかもしれない。あるいは、未だにリュシェールの名を口にすることすら憚られているのかもしれない。父親の仕事やナチスとの関係は、必ず彼女のプロフィールに載る。むしろ、彼女に対する興味は、女優としてよりも、そちらの方にあるといっても過言ではない。

 しかし、コリンヌは女優である。彼女の人生は、人によって様々な見方があると思うが、『格子なき牢獄』での彼女の容姿と演技は、みずみずしい魅力に満ちている。コリンヌ・リュシェールという名前が映画史の片隅に残っているのは、「ナチの高級売春婦」といわれたからではなく、『格子なき牢獄』の女優だからである。彼女の類稀なる美貌、カモシカのようにすらりとした肢体、そして初々しい演技は、弱まることを知らない青春の輝きの象徴だ。この映画を一度でも観た人は、「女優」コリンヌ・リュシェールのことを決して忘れないだろう。
(阿部十三)


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[コリンヌ・リュシェール略歴]
1921年2月11日、パリ生まれ。14歳の時、レイモン・ルローに演技を学び、マルク・アレグレ監督の『みどりの園』でデビュー。1938年公開の『格子なき牢獄』でスターの座に就くが、戦争と病気のために女優としては満足な活動ができなかった。ジャーナリストだった父親ジャン・リュシェールの仕事の関係でナチス高官オットー・アベッツらと交流。戦後、アベッツの愛人だったとの嫌疑をかけられ、対独協力者として逮捕される。レオニード・モギー監督の新作でカムバックする予定だったが、1950年1月22日、死去。