文化 CULTURE

発掘!明治文学 松原岩五郎『最暗黒之東京』の周辺

2011.07.02
 場当たり的な政策、米価の高騰、米騒動、度重なる不況、コレラの蔓延、都市部への人口の流入、木造建築密集地帯で多発する火災......と悪化の一途をたどっていた貧民問題は、世論においても多少の関心を集めていた。特に明治10年以降は、数多くの社会主義思想関連の書籍が翻訳出版され、単に「自己責任」としてとらえられていた貧民観も、社会問題的側面から論じられるようになる。各新聞でもその惨状について様々な報道がなされており、国木田独歩の論評にもあるように、松原岩五郎以前にも注目すべきルポはいくつか存在している。

 西田長寿著『都市下層社会』によると、日本最初の資本主義恐慌の起こった明治23年には『日本』『国民新聞』『読売新聞』『郵便報知新聞』『時事新報』『朝野新聞』『大阪毎日新聞』など各紙でかなりの報道がなされていた。松原のルポがブレークする下地はすでに整っていたのである。

 松原がいかにして最下層へ潜入することになったか、その動機については『最暗黒之東京』の導入部に述べられている。

 某年某月、日、記者友人数名と会餐す、談、たまたまロンドンの乞食に及ぶ。彼らが左手に黒パンを攫みて食いつつ右手に空拳を握って富豪を倒さんとするの景色は、いかに世界の奇観なるよ。英の同盟罷工、仏の共産党、ないしプロセイン・ロシアの社会党、虚無党、その事件の起る所以を索ねれば、必ずそこに甚だしき生活の暗黒なかるべからずと。

 ロンドン、パリ、ペテルブルグ......世界の大都市はそれぞれ貧困問題を抱え、政治は混乱を極めていた。では日本はどうだろうか、東京はどうだろうか。松原はその真実を掴むべく、「貧大学」の門を叩く。

 時正に豊稔、百穀登らざるなく、しかるに米価荐りに沸騰して細民咸飢に泣き、諸方に餓死の声さえ起るに、一方の世界には無名の宴会日夕に催うされて歓娯の声八方に涌き、万歳の唱呼は都門に充てり。昨日までは平凡のものと思いし社会も、ここに至って忽然奇巧の物となり、手を挙ぐれば雲涌き、足を投ずれば波湧くの世界、いずくんぞ独り読書稽古の業に耽るべけんやと。すなわち大事は他に秘し、独り自から暗黒界裡の光明線たるを期し、細民生活の真状を筆端に掬(むす)ばんと約して羈心に鞭(むちう)ち飄然と身を最下層の飢寒の窟に投じぬ。


 明治21年、松原は内田魯庵と知り合い、翌年冬には二葉亭四迷(長谷川辰之助)の知遇を得ている。二葉亭は当時『浮雲』を未完で中断した頃で、官報局で英語やロシア語の新聞・雑誌を翻訳するかたわら、海外の哲学や文学、社会問題や労働問題などを熱心に研究していた。まだ駆け出しの松原は二葉亭の豊富な知識に圧倒され、その社会批評、人生批評の精神に大きく影響を受ける。坪内逍遥、内田魯庵合編による二葉亭追悼文集『二葉亭四迷』(明治42年8月)の中で、松原は当時の様子を次のように述べている。

 当時私は不幸にして君の小説といふものに就ての見地を聞く事を得なかったが、唯一度文章に就ての持説を聞いた。曰く「文章は命がけで書いたものでなくば面白くない。古来文章家の文章、詩人の詩ほどつまらぬものはない。(君のこの口吻には韓退之、蘇東坡も李白、杜甫も皆眼前の塵であった)。が、支那人では唯魏叔子だけは別物だと言われた。畢竟文章に遊戯の分子があっては取るに足らぬとの説。......
 その頃恰もツルゲーネフの「めぐりあひ」が出た際であったから、其話を聴くと愛読書もいろいろあるといふので、ゴンチャローフのオブルイフやら、ドストエフスキーの「罪と罰」其他露国の名作二三の梗概を話されたが其当時、小説といふものは大概世間の閑人が道楽半分に書くものだと思っていた自分に新たな感じを与へたのは是等の諸作家がいづれも憂国慨世の士であるといふ事、小説を籍って社会の批評をし議論をしているのであるといふ事であった。
 君の読書眼の鋭敏なる事に就いては、毎度敬服していたのであるが、或る日二三時間ほどの話の中で、ゲーテやら、サリーやら、ダルウィンやら、ヘルチャン(ゲルツィン)やらイグナーチフやら、大方方面の異った人の事を話された。ファウストに詳しい人が、種原論にも中々委しい。変態心理学に相応の知識があるとおもへば、シベリヤ計略にも中々調査されている。......
「二葉亭先生追想録」(『二葉亭四迷』上巻)より

 一方、松原の弟分であった横山源之助は当時の様子を次のように述べている。

 此時僕は矢崎鎮四郎君(嵯峨の屋)や松原岩五郎君等とも知合に為っていたから、時々寺から出て矢崎君や松原君を尋ねる。松原君は今こそ女学世界の主筆で候と大人しくなっているが、此時は放浪組の隊長、外神田の素人下宿に燻って、国民新聞社に社会記事を送っていた。僕は抹香臭い中に交っていたが、生活に縁の遠いお談義は身に入らず、社会党などの行動が眼にちらついていた。だから貧民とか労働者とかいふと、無性矢鱈に身にしむ。こんな風だから、松原君とも自然に懇意になる。......
 当時社会主義者などいふ者が未だ現はれず、偶々「国民之友」に社会問題に関する二三の論文が掲載された位が関の山、混沌たるものであったが、空想に憧れていた当時の僕は、遥にドイツやベルギーの社会運動を想像して、窃に労働者の救済を以て任じていた。で、這んな風に交際の範囲が広くなったが、いづれも長谷川君の人物に服していた連中だから、僕は閑隙さへあると、長谷川君を尋ねたものだ。そして何時も長谷川君の家で落ち合ったのは、内田不知庵氏であった。当時はドストエフスキーの罪と罰を翻訳して、名声嘖々(さくさく)たる時で、長谷川君と口角泡を飛して、何か論じていたのを僕は傍で煙草を吹しながら、ぼんやりと聞いていた。......
 長谷川君の沈弁と、内田君の快弁、ぽかんと傍で聞いていた僕までが、議論の中に吸い込まれて夢中になった。夢中といえば、当時長谷川君を尋ねると、いつも夜を更かすのが定例であった。やがて君が神田の皆川町に別居すると、遠慮会釈もあらばこそ、ずるずるべったりに泊り込んだことも一二度ではない。君はその頃英国職工の生活や賃金を調べて、官報に出していた。
「真人長谷川辰之助」(『二葉亭四迷』上巻)より

 「天下有志家の雛卵」「世界大経世家の嫩芽」たる内田や二葉亭らの壮大な議論に刺激された松原は、「社会批判としての文学」に目覚める。そして、渾身の筆をもって文明開化に浮き足立った日本に喝を入れるべく、自ら最下層に潜入して行く。そこには議論や文章修行、読書稽古では到底知りえない真実が秘められていた。その真実を白日の下に晒すべく選んだ手段が、潜入という徹底した現実観察であったことは、すでに『文明疑問』において貧民問題や現実と理論の隔絶について論じていた松原ならではと言えよう。二葉亭、松原、横山の3人はしばしば連れ立って下層社会に潜入しているが、その時の様子を松原はこう振り返っている。

 ウマク化けて、服装なんかすっかり出来ているんで、これなら十分彼等の中にとけこめると思っていても、どうも此方の思うように向うがうちとけて来ない。長谷川も酒をのむ、ものも食うウタもやって、兄弟なんて肩をたたき合っている内はいかにも面白そうなのですが、それでいてドコとなく先方で油断していないところが見えるんです。ナゼかというと、長谷川の態度そのものは本式の酔払いなんだけれども、あの眼がイケませんや、眼が冷めて酔っていないんですからね。
(柳田泉「二葉亭とその周囲」より)

 最下層の「残飯屋」に就職し、「最寄の怪人種等」から有り難がられた松原とは大違いである。
(寺門仁志)


【関連サイト】
『最暗黒の東京』(岩波文庫)


【参考文献】
柳田泉「二葉亭とその周囲」(『日本文学研究資料叢書』 有精堂 1979年)
山田博光「二葉亭と松原岩五郎・横山源之助」「明治の社会ルポルタージュ」(『国木田独歩論考』 創世紀 1978年)
柳田泉「古い記憶から(四)--松原二十三階堂の社会文学--」(『文学』 1960年3月)
西田長寿『都市下層社会』(生活社 1949年)
坪内逍遥、内田魯庵編『二葉亭四迷』(易風社 1909年)
松原岩五郎『最暗黒之東京』(民友社 1893年)

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