文化 CULTURE

究極の絵葉書&切手道 その険しくも愉快ないばら道

2011.09.03
 鉄道マニアを「鉄っちゃん(もしくは鉄ちゃん)」と呼ぶそうな。筆者の旧知の編集者さん(女性)は切手蒐集家を「切っちゃん」と呼ぶ。これが世間一般で通用する呼称なのか否かは知らない。その編集者さんも切っちゃんのひとりではあるのだが。

 小〜中学校時代、同級生(主に男子)に切手蒐集家が数名いたと記憶している。記念切手発売日ともなると、遅刻するのもお構いナシに郵便局が開く前から大人に交じって並んでいた。事実、その姿を通学途中で目にしたこともある。何が彼らをそこまで掻き立てるのか、正直なところ当時は理解の範疇を超えていた。

 長じて美術館通いをするようになり、絵葉書をちょこちょこ買っているうちに膨大な数に上ってしまった。今から20数年前のこと。かつて作家を生業としていた旧友とたまに絵葉書のやり取りをしていたのだが、ある時、想像を絶するような1枚が届いたのである。それは、棟方志功の代表作のひとつ「弁財天妃の柵」の絵葉書に、それと同じ図柄の記念切手(近代美術シリーズ第14集/1982年11月24日発行)を貼った、まさしく「絵葉書 meets 切手」の王道を行くシロモノ。「この手があったか! う〜ん......ヤラレた!!」ーー不覚をとるとは、こういうのを言うのだろう。

 それまでは、絵葉書の図柄に沿うようなーー紫陽花の絵なら紫陽花の図柄(絵もしくは写真)の切手を貼る、などーー切手を組み合わせて季節の便りを知人・友人に出すことはあっても、絵葉書の図柄と切手のそれとが〈全く同じ〉であるものを貼って出す、という、この上もない組み合わせを思いつくことは一度たりともなかった。件の「弁財天妃の柵」で脳天をカチ割られて以来、筆者は絵葉書と同じ図柄の切手を探す、或いはその逆の行為に、今に至るまで血道を上げ続けている。家人もその組み合わせの妙にドップリと嵌ってしまい、今では筆者以上の求道者(?)だ。これを我々は〈究極の絵葉書&切手道〉と勝手に名づけた。そしてそれらを探し求める行為を、大袈裟に〈行脚〉と呼んでいる。

 ご存知のように、目下、国内の葉書郵便の料金は普通郵便で一律50円である。数十年前、封書用に発行された額面50円の切手を現行の私製葉書に貼って出すのが〈絵葉書&切手〉の絶妙の組み合わせを実現させる最良の策なのだが、事はそう単純ではない。
 例えば、長谷川等伯画の国宝「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)。この絵葉書を制作しているのは、京都に本拠地を置く便利堂(神保町その他各地にアンテナショップあり)なのだが、同屏風の一部を図柄にした記念切手は、額面が15円である(第1次 国宝シリーズ全7集のうち第6集/1969年7月21日発行)。これを4枚貼って合計60円とし、絵葉書を出してもいいわけだ。料金不足の郵便物は送り主に戻ってくるが、料金超過はそのまま送り先に届く。が、みみっちぃことを言えば、縦長で美しいデザインの「松林図屏風」の切手を4枚も絵葉書に貼るのは余りに惜しい。そこでどうするか。合計50円になるように、35円分の切手を足して貼ればいいのである。その際、不釣り合いなデザインの切手を貼るのはご法度。なるべくなら、静謐な佇まいの「松林図」とバランスが取れた切手が望ましい。......などということを考えつつ切手を選ぶのも、この趣味の味わい深いところ。
 しかしながら、そのためには、常に少額の記念切手を買い揃えておく必要がある。その入手法は様々だが、ひとつだけ言っておくと、筆者は決して神保町辺りの高額なコイン&古切手屋などでは買わない。かと言って、ネット・ショッピングもしない。となれば、自分の目と足で探すしかない。穴場は、街中の意外なところにあるものだ。かつての切っちゃんから譲ってもらう、というのもひとつの方法。すっかり切手蒐集熱が冷めてしまった友人がいたら、これ幸いである。

 幸か不幸か、年々、切手蒐集熱は冷める一方で、一時期に較べて昔の記念切手の評価もだいぶ下がってきた(数少ない例外は歌川広重「月に雁」、菱川師宣「見返り美人」など)。筆者自身は、もとより高額な古切手には全く興味がなく、更に言えば手袋をはめつつピンセットで切手を扱うほどの熱狂的マニアでもないため、飽く迄も〈使う〉ために欲しい切手を探し求めて買い漁ることに邁進する。つまり、世間一般で知られるような切手コレクターとはだいぶ質を異にしているわけだ。故に、少々の汚れや折れは全く気にしない。どっちみち〈貼って〉使うのだから。

 同じ図柄の絵葉書と切手を揃えるためには、その図柄(絵画、焼き物、人形、着物の生地etc.)となっている作品の所蔵先を先ずは調べなければならない。ネットなら即座に調べられるだろうが、筆者は滅多にそれをしない(そもそもネットで何かを調べる、という癖が身に着いていない旧型人間)。筆者とその家人は、納戸の書棚が傾くほど詰め込まれている画集や展示会の図録、美術の関連書などを丹念に調べ、それらの作品の所蔵先を突き止める度にせっせとメモしておくのだ。その作業後に、「これは絵葉書がありそうだぞ」と思う絵画や焼き物などの作品の所蔵先に、絵葉書の有無を問い合わせてみる。運が良ければ、通信販売で遠くの美術館から切手と同じ図柄の絵葉書を購入でき、究極の絵葉書&切手道はそこでひとつの完成をみる、という寸法。

 また、本筋からは外れてしまうが、各地の美術館や博物館に問い合わせた際に、対応如何によってその施設の良し悪しが図らずも判ってしまう場合があり、これもなかなかに興味深い。問い合わせに対して丁寧な電話をくれるところ、それとは逆にナシのつぶてのところ、「この絵の絵葉書ありますか?」の問いに、素っ気なく「ありません」と答えてその場限りになってしまうところ、などなど。その対応は実に千差万別である。また、「ご所望の絵葉書はありませんが、他の物ならありますのでお送りします」と、ご丁寧にも無料で同じ画家の絵葉書を5枚ぐらい送ってくれた親切な地方の美術館もあった。こうした対応をして下さるところには、いずれ機会があったら足を運んでみようと思う。もちろん、無料で送って下さった絵葉書に対するお礼状は、きちんと先様に出しておいた。先述の近代美術シリーズであるが、目下、図柄と同じ絵葉書の存在を確認済及び入手済みなのは、全32種類中27種類。うち3枚が通信販売で買い求めたものである。記念切手になっているからと言って、必ずしもその作品の絵葉書があるとは限らない。が、見つかった時の歓びが何物にも代え難いのもまた事実である。

 絵葉書と切手の究極の組み合わせを実現させるための手段のひとつに、料金を超過する切手の金額に留意してはならない、というのが挙げられる(有体に言えば吝嗇ではいけない)。例えばこういうことだ。筆者は、ある時、家人が本阿弥光悦作の国宝「舟橋蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)を図柄に用いた額面100円の記念切手(第2次 国宝シリーズ第7集/1978年1月26日発行)を、同じ図柄の絵葉書(便利堂製)に貼って知人に出したことを知っている。つまり倍の金額の切手を貼って絵葉書を送ったのだ。それでも家人は「損をした」「惜しいことをした」とは決して言わない。どころか、「これ(組み合わせ)にはさぞかし(相手が)ビックリするだろうな」と、ほとんどほくそ笑んでいるかのような不敵な笑みを浮かべたのである。この優越感。この自己満足。実はこれこそが、人には言えぬ苦労を伴う絵葉書&切手道、換言するなら、終わりのない「いばら道」の最大の醍醐味なのかも知れない。かくして、行脚はこれからも続く。
(泉山真奈美)


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