文化 CULTURE

池島信平『雑誌記者』 奇妙な仕事の心得とは

2012.09.22
 大学時代、天野勝文先生の「現代マス・コミュニケーション論」という講義を受けていた。当時、私の主専攻は日本文学。ただ、情報文化の世界にも興味を持っていたので、その講義にはマジメに出席していた。
 ある日、天野先生主宰の課外ゼミが行われる、というニュースを友人から聞き、参加することにした。ゼミの名前は、天野子屋。そこで私を含む20人ほどの生徒は、毎回与えられるお題(たとえば「民族」「価格破壊」「地震」など)をもとに1000文字程度の原稿を書き、回し読みをして、先生と一緒に論評し合い、目立った意見や感想をレジュメにまとめていた。

 音楽関係の出版社に行くことが決まった後、「編集者になる前に」ということで、先生から一冊の本をお借りした。それが『文藝春秋』の編集長を務め、後に文藝春秋の社長になった池島信平の『雑誌記者』である。私がこれから編集するのは音楽雑誌なので、どれくらい参考になるのか分からなかったが、興味深く読んだ。日本文学を専攻する者として、面白かったのである。とくに印象的だったのは3箇所。雑誌の企画を5分で15種類も考えた菊池寛の才人ぶり、編集者や記者を標的にした「横浜事件」、税務署と闘う坂口安吾のエピソードである。

 先週、先生と電話でお話しした後、この本のことを思い出し、古本で購入した。そして、すぐに読み終えた。あれこれ編集の仕事をした後に読むと、さすがに感じ方も全然違ってくる。ジャンルに関係なく、編集者にとってここまで「腑に落ちる」本もないのではないか。もっと早く読み直しておけば良かったと思う。1958年に書かれたものだが、古さがない。文字通り金言の泉なのだ。

 「編集者で一番怖ろしいのは、精神の動脈硬化である」
 何年も同じ雑誌を手がけている人には、胸にしみる言葉だろう。会社がその人を長く使うつもりなら、「才能を鰹節のように削ってゆくことばかりでなく、休ませることによって、再び肥らせることが必要だ」と池島は書いている。「ほんとうに人間の才能を(才能だけが命の職業である)大事にするなら、それくらいの余裕はみてほしい」ーーしかし、なかなか実践されないのが現実である。

 具体的に、編集者は何をしなければならないのか。池島は「編集者は企画を樹てなければならない」「編集者は文章を書けなければならない」「編集者は絵画と写真について相当の知識をもっていなければならない」など、いくつか項目を挙げている。そして2、3年で一人前の編集者にならなければ、「その人はどうやら、編集者失格である。いくら学術優等、人格高尚でも仕方ない」とも書いている。
 こういったことも、知識に対する本能的な好奇心がなければ話が先に進まない。取材をするのに、取材相手の作品を一つも読んでいない、見ていない、聴いていない、という編集者は論外だろう。そんな状態でも形だけは成立してしまう仕事だから怖い。

 ほかにも、編集者に限らず多くの人が頷くような話がちりばめられている。たとえば肩書きのこと。若い頃、『文藝春秋』の出張校正にかり出された池島は、意味不明な論文を読みながらこう感じたという。
「『筆者は東大教授法学博士』なんていうと、ありがたがって巻頭論文にまつり上げているが、こっちは読んでみてもわからない。......一体、どうしてこういうバカバカしいことが、大手をふって行われているのであろうというのが、その時、キモに銘じたことである」
 次は、名の知れた会社の社員にありがちなことへの警鐘である。
「この『名刺一枚』でわれわれはよく勘違いするのである。名刺の中の社名が有力なのであって、われわれの名前が有力なのではない」

 戦争前夜、ファシズムに走る同僚を無力感と共に眺めていた時代にも言及している。
「きのうまで仲間と思っていた者が突如として敵に回るのである。わたくしは、みだりに人を敵という言葉で呼びたくないが、敵という言葉を実際に遣うのは相手方である。『自由主義は敵だよ。古いぞ』という一言で片附けられ、新しい(?)時代が強引に是認されてしまう。そこに論議もなければ、常識の入る余地もない。怖ろしいことだと私は思う」
 さらに、「これからの若い編集者」に向けて、「もし将来、再び暗い時代が来た時、敵は外にあると同時に、もっと強く内部にあると覚悟してもらいたい」と書いている。
 何か物事を潰すには、「古い」という言葉を遣うのが手っ取り早い。「もう古いよ」の一言で、何でも全否定できる。そこには論理性も何もない。実に便利な言葉である。この遣り口は、残念なことに、いつの時代も変わることなく通用している。

 戦後、『文藝春秋』は紙不足に悩まされ、ついに会社は解散。新時代の到来を告げる雑誌が次々登場した。当時の風潮について、池島はこう述懐する。
「国民全体が心理的虚脱に陥っているとき、いたずらに強い言葉や威勢のよい掛け声だけでこれを一方的に強引に引きずり、すべてを支配しようとする風潮に対して、わたくしなぞ全面的には、同調することができなかった」

 『文藝春秋』のことが嫌いだという人もいるかもしれないが、主義や好みの問題とは関係なく、『雑誌記者』はまぎれもない名著である。これが現在古本でしか入手できないというのは、どういうことなのだろう。中央公論社の嶋中鵬二と共に聞き手役を務めた『文壇よもやま話』は今でも手に入るが、後世の雑誌の作り手のために、『雑誌記者』も絶版にすべきではないと私は思う。

 この本に出てくるエピソードの中で最も好きなのは、休日に母校の東京大学にフラッと立ち寄るくだりである。その時、池島はたまたま手に取った東大新聞で、大江健三郎の「奇妙な仕事」を読み、「こいつはイタダける」と思ったという。
「雑誌記者というものは、大江君の小説の題ではないが、『奇妙な仕事』である。社へ出て、機械的にペンを走らしているだけが仕事ではなく、日曜日にブラブラと歩いて、ぶつかったことからも仕事は生まれるのである」
 忙しすぎて休めない、忙しいのだから外に出られなくても仕方がない、という人もいるが、これは「精神の動脈硬化」の一因になる。自分の足で情報をとってくる。直接自分の目で見て、自分の耳で聞く。これ以上、大切なことはない。ネット万能の時代だからといって、編集者をオフィスに縛りつけている会社は健全ではない。

 余談だが、「奇妙な仕事」が五月祭賞を受賞し、東大新聞に掲載されたのは1957年のこと。ちょうど、天野先生が東大新聞の副編集長兼マネージャーをしていた頃である(大江健三郎とはこの時以来会っていないらしい)。広告を担当していたのは、江副浩正氏。江副氏は『リクルートのDNA』という本の中で、「思えば東京大学新聞社の時代に、天野勝文さんに『広告もニュースだ』と言われたのが、リクルートのそもそもの始まりだった」と書いているが、それも、この前後のことだろう。東大新聞時代のお話は先生からあまりお聞きしたことがないので、今度いろいろお尋ねしたいと思う。
(阿部十三)


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池島信平(書籍)

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