文化 CULTURE

『平気でうそをつく人たち』 邪悪の定義

2013.01.19
 お正月、久しぶりに帰省した際、5年前にできたというショッピングモールに行ってみた。と、そこにある本屋で文庫本が不自然なほど大量に平積みされていた。表紙を見ると、『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』とある。原題は『PEOPLE OF THE LIE』、著者はモーガン・スコット・ペック。人間の心の内側にある邪悪性を扱った書である。

 懐かしいと思う人も多いに違いない。私が初めてこれを読んだのは10年ほど前のこと。出張先で読み、たいして感想を持つこともなく、ずっと忘れていた。それがなぜ今こんな風に田舎の本屋でフィーチャーされているのか。TVか雑誌で紹介されたのかもしれない。理由はよくわからないが、この本屋の人には何か思うところがあったのだろう。もう一度読んでみようという気持ちが起こり、手に取ってみた。

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 スコット・ペックがこの本の中で扱っているのは、明確な悪の自覚をもって行われる犯罪ではなく、一見穏やかに暮らしている人の中に巣食っている心の病気である。私たちの身近にいる人、あるいは、自分自身の中にいる「悪」である。

「私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである」

 「邪悪」について、同じような定義が何度か繰り返されているが、要するに、「自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する」ということ。これを促しているのが「怠惰」と「ナルシシズム」だというのが、スコット・ペックの主張である。

「邪悪な人間は、自責の念ーーつまり、自分の罪、不当性、欠陥にたいする苦痛を伴った認識ーーに苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。彼らは苦痛を引き起こす。邪悪な人間は、自分の支配下にある人間にたいして、病める社会の縮図を与えている者である」

 今ではこういう視点に新しさを感じる人は少ないだろう。自分は自覚的な人間であり、自分のしていることをきちんと理解していると思い込み、その自己像の上にあぐらをかき、他人の人格を汚染している人間がいることを、私たちは知っている。そういう自覚が致命的に欠落した人間が、自分にとって上位にくる存在(支配力を行使し得る存在)だとしたら不運である。スコット・ペックは「邪悪」の症例をいくつか紹介しているが、ほとんどの人は、それらのケースと合致する対象を容易に身近に見つけ出すことだろう。

 ただし、生兵法は大怪我のもと。スコット・ペックはこういう文章を置くことで、読者に釘を刺している。

「邪悪な人間には自分の邪悪性を他人に投影する性癖がある」

 「悪」の定義を設けるのは難しい。しかも、それが法に抵触しないレベルのものだと余計扱いにくい。それを扱っている人の尺度、モラル、正当性が問われるからである。スコット・ペック自身、己の正当性を自問している。
 畢竟、「悪」を定義するのはブーメランを投げるのと同じことである。「邪悪な人間は自分の邪悪性を他人に投影する」などといわれたら、誰も自覚なき邪悪を糾弾することは出来なくなる。医者の特権で邪悪な人間を選別することだって出来ないはずである。そうなると、「この本は何なの」ということになる。

 「怠惰」と「ナルシシズム」から免れている人間は善良なのかという議論も出てくる。
 自分のしていることは正しいのか、相手の役に立っているのか、相手を傷つけやしないか、と常に逡巡しながら、何も決断を下せずにいることが健全とは思えない。殊にそれが組織のリーダーだったとしたら、そんな人間には誰もついて行こうとは思わないだろう。度が過ぎれば、これも病気である。

 今回、再読して面白かったのは、「専門化」にふれている部分である。ある程度社会経験を積んだ後だと、ここはある種の実感をもって読むことが出来る。

「現代の悪の多くは専門化に関係しており、専門化にたいしてわれわれは警戒心を身につける必要があると確信している。専門化については、原子炉にたいしていだくと同じ程度の不信の念や安全対策をもって対処すべきだと私は考えている」

 なぜなら「専門化」は個人の良心を薄める、ないし、消してしまうからである。スコット・ペックはこう続ける。

「集団のなかの個人の役割が専門化しているときには、つねに、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。そうしたかたちで個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態となる」

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 マーク・アクバーとジェニファー・アボットが監督した『ザ・コーポレーション』という映画がある。かなり長い作品で、ドキュメンタリーとしてはいまいちまとまりがないが、企業を「人」に見立てて人格診断テストを行うコーナーは面白い。そこでは、企業という人物の次のような性格にチェックが入っている。

・他人への思いやりがない。
・関係を維持できない。
・他人への配慮に無関心。
・利益のために嘘を続ける。
・罪の意識がない。
・社会規範や法に従えない。


 診断結果は「サイコパス」となる。
 「専門化」によって責任を逃れ、良心の存在しない環境で仕事をするから、こういうことになるのだろう。奇妙なことに、良心を担当する部門は存在しないのである。この映画でいわれていることは、『平気でうそをつく人たち』の「集団の悪について」の企業バージョンとみてよい。もしかすると、監督はこの本を読んでいたのかもしれない。

 日常生活に何かしら問題を抱えつつも、どちらかといえば無害な人たちの中にくすぶる感情をえぐった映画がある。1967年の『ある戦慄』だ。日曜の深夜、電車で同じ車両に乗り合わせたチンピラ2人組(トニー・ムサンテとマーティン・シーン)と乗客たち。この密室の中で、チンピラは乗客たちをえげつないやり方で挑発する。乗客たちは一致団結してこの2人を取り押さえようとはしない。彼らは気持ちも行動もバラバラである。休暇中の軍人も乗っているが、彼は片腕を骨折しており、しかも、「自分が住んでいる街ではない」といって、傍若無人なチンピラとは距離を置いている。
 私見では、ここにも「専門化」の問題が浮き彫りにされていると思う。通常、こういう状況下に制服を着た人がいれば、乗客は「あの人がきっと解決してくれるだろう。だから、自分は何もしなくていい」と思うはずである。しかし、彼は何もしてくれない。乗客は失望し、不穏な密室に置かれることで感じていたストレスが倍加する。

 スコット・ペックにいわせると、「ストレスとは善の試金石」である。「真の意味で善良な人とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人である」という。なかなか難しい注文である。『ある戦慄』では、チンピラたちに弄ばれた乗客たちが次々と感情を漏らしたり、爆発させたりする。無力さを露呈するだけの者もいる。やがて物語は惨めな結末を迎える。しかし、乗客の大半は「ひどい時間を過ごした」と考えるにとどまり、すぐに自分の無力さを忘れて、日常に戻ることだろう。その際、彼らが当然のようにスケープゴートにするのは、おそらく軍人である。「あいつがもっと早く、どうにかしてくれれば良かった」ーーかくして「邪悪」が完成する。

 『平気でうそをつく人たち』はあらゆる批判、反論を想定した上で、慎重に予防線を張りながら書かれている。何らかの示唆は与えてくれるが、はっきりとした解決法は明示されない。そして、『愛と心理療法』の著者らしく、終章で「悪にたいするわれわれの攻撃法の基本となるのは愛でなければならない」という。いうまでもなく、ここには著者の宗教観が色濃くあらわれている。もとより愛の効能を否定する気は、私にはない。ただ、それが通用する人がいる一方、全く通用しない人も世の中には確実にいる。

 現代社会は「悪」や「邪悪」という言葉に麻痺している。「お前は邪悪だ」といわれても、昔の人が感じたほどの痛痒は感じないのかもしれない。一種のファッションであるかのように、自ら「悪」の言葉をまとおうとしている人さえいる。だが、それは身のほど知らずというものだ。スコット・ペックが唱える邪悪とは次元の異なる、極めて自覚的かつ徹底的な邪悪を前にしたら、なす術もなく、心身が凍るような思いをするだけだろう。そういう悪魔に対処する術は、どんな書物もちゃんとは教えてくれないのである。
(阿部十三)


【関連サイト】
M.SCOTT PECK
『平気でうそをつく人たち』(書籍)
『ザ・コーポレーション』(DVD)
『ある戦慄』(DVD)

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