文化 CULTURE

富ノ澤麟太郎の文学

2013.11.30
富ノ澤麟太郎の世界

 文章はピアノのようなものである。ピアノは誰にでも普通に音を出すことが出来る。ただし、奏者の腕によって出てくる音はだいぶ異なる。文章も誰にでも書くことは出来るが、書き手によって暗色になったり、暖色になったり、硬質になったり、神秘的な雰囲気を帯びたりする。夭折の天才、富ノ澤麟太郎の作品を読むと、そんな当たり前のことを改めて潜思したくなる。

 富ノ澤麟太郎は1899年3月25日に生まれ、1925年2月23日に亡くなった作家である(1900年に宮城県で生まれたとする資料もあるが誤り)。出生地は山形県で、間もなく宮城県に移り、木町通小学校を経て仙台第二中学校を卒業。早稲田大学在学中に横光利一、中山義秀らと交友関係を結び、佐藤春夫に師事。大学を中退し、数作の小説を執筆した後、まもなく病に倒れて急逝した。

 親友だった横光利一は「富ノ澤麟太郎」という短くも感動的な回想文の中で、最初の出会いをこのように記している。

「或る日、學年試驗の休みの時間、多くの者は試驗のノートを讀み耽つてゐた。しかし、彼だけはバットを燻らしながら窓から外を眺めてゐた。その時私は彼の相貌をつくづくと見た。すると何と驚くべき貌ではないか。見れば見るほど私の視線はひきつけられ、心が輕やかに踊り出し、私の眼から不可思議な涙が流れて來た」

 横光は富ノ澤の性格の温順さ、高潔さを愛した。中山も「富ノ澤的存在」という回想文で、「彼はまさに神のやうに心美しい人だつたのではあるまいか」と評し、負い目を感じていたことを吐露している。師の佐藤春夫も弟子のことを「カッパ」と呼んで可愛がっていた。

 佐藤春夫の言葉を借りると、富ノ澤麟太郎の作品は「非常にロマンチックで、少々暗い作風であるが、個性的なもの」(『詩文半世紀』)である。もっといえば、新感覚派の先駆け的存在であり、その怖いほど鋭敏な感性の触手によって摘まれた散文は、読者の想像力を幻惑せずにはおかない。
 富ノ澤は映画『カリガリ博士』とエドガー・アラン・ポーを偏愛していたが、明らかにその影響と思われる神経症的な毒が、美しい詩魂の中に混じっている。富ノ澤の筆から生まれる登場人物の多くはいつも精神か肉体を病んでいて、死の香りに包まれている。ただ、作風は暗いながらも重々しくはなく、一行読んだだけでも読者を妖しく光る星空の下へといざない、簡単に現実世界から隔離させてしまう妙味を持っている。

 作品数は非常に少ないが、繊細極まりない心理描写と夢想とダダイズムが融合したような長編「あめんちあ」、一閃の魔法を思わせる幻想譚「ムハメットと煙草」、ルナティックな悪夢を散らした「セレナアド」、夜の美しさに支配された傑作「流星」、画家志望の青年の悲しい青春を描く「青柳正一の自畫像」を代表作として挙げておきたい。
 「四月の夜の匂ひは、果物店から縱横無盡に星空へ向つて放散してゐた」の一文で始まる「流星」は、1924年10月号の『改造』に掲載された。いわば公的なデビュー作である。読みやすさでいうなら、これが一番だろう。脳を病んでいる夫と一緒に花屋を営む不幸な女性、糸子の心理の綾を、蜘蛛の糸をつまむように丁寧に扱いながら、格調高く描いていて、富ノ澤の天才的な言語感覚を堪能することが出来る。糸子の夫と元恋人が決着をつける夜の描写など、思わず息をひそめて読みたくなるほど清澄で、神秘的で、それでいて緊張感がある。

富ノ澤麟太郎の自画像

 ところで、富ノ澤は自分自身のことをどのように捉えていたのだろうか。どういう認識の下で創作を行っていたのか。その自画像とみても差し支えないであろう文章がある。

「さうして彼は人間が生きると言ふことは、嘘の殿堂を築くことに過ぎないと思ひながらも、相談にならない幻想を抱いてみたくてしようがない。その幻想にひたりきつてゐる間、彼は自分が彼自身ではないもつと別のものになつた氣がしてゐる。それこそ僞善を上塗りする高貴と言ふものではないかと考へるのであるが、そこからは絶えず天啓とでも言はれるものが感じられるやうな氣がしてならなかつた」
(「あめんちあ」)

 自身の創作のメソッドにもう少し踏み込んだ記述もある。

「私の愚かしい空想の織物は、實在の上に把握すべき人間の誠の性命(註:「誠の性命」に傍点)に纏はらうとはしない。そしてこの織物は常に、私の生に對する邪悪な心の臟の陰鬱と恐怖とから微動する動悸のともなり(註:「ともなり」に傍点)によつて、苦しい憂鬱の呼吸を息づく。この屢々の憂鬱と退屈とに惱亂させられるこの織物は、時折慴えるやうに私の身邊を飛びたつて行く。かうした場合、私の心身は、地軸の眞中に投げ込まれ、空洞に等しいその地軸の髄のなかを狂瀾の舞踏に委ねる」
(「奇怪なる實在物」)

 彼は現実社会や現実生活の摩擦をよりどころとするよりも、夢想癖の強い己の内側から湧いてくる不可思議な世界を重んじ、繊細な神経をすり減らしながら創作する文人であった。プロレタリア文学が勢いを増していた時代背景を考えると、その特異さがより浮き立ってくるだろう。

富ノ澤麟太郎の心臓

 興味深いことに、富ノ澤の作品には必ずといっていいほど「心臟」ないし「心の臟」という言葉が出てくる。その鼓動と符合するかのような時計の「セコンド」の音がクローズアップされている作品もある。そして、多くの場合、それらは不吉な連想へとつながっている。登場人物たちはまるで心臓の動きに追い立てられているかのようだ。

 心臓のイメージにとり憑かれた登場人物は、しまいには次のような発想に嵌り込んでゆく。これは電車内での一場面である。

「彼は何氣なく頭を擡げるやうにして車内の天井を見上げた。ちやうど彼の頭の上のところに省電の道案内が圖解されてあつた。彼は何氣なくそれをちらりと見たやうに思つた。その刹那に何故ともなく、彼は心臟の解剖圖を回想した。彼は再び眼を天井に向けて仰いだ。さうしてその道案内は、どうみたところで、心臟の圖解のやうでならなかつた。(中略)ーー東京はまぎれもなく心臟そのものに外ならない......心臟は東京だ......東京は心臟だ......」
(「夢と眞實」)

 現実生活を作品に持ち込まないようにしながらも、東京での生活によって富ノ澤の神経が過度に鋭敏になっていたことが、こういった描写から伝わってくる。また、当時、富ノ澤は母親のことでもひどく悩んでいた。父親の死後、母親が若い男と付き合っていたのである。次作の腹案を持ちながらも、「手につかない」と嘆く富ノ澤に、佐藤春夫は和歌山県にある佐藤家の実家で英気を養うようすすめた。しかし皮肉なことに、その養生中に倒れ、客死してしまうのである。

富ノ澤麟太郎の死

 富ノ澤の死因には、少し曖昧なところがあった。そのため様々な憶測を呼び、富ノ澤の母親が「佐藤は麟太郎の天才を嫉み、一家総がかりで、麟太郎を殺した」と横光利一に伝えたことにより、一時文壇で騒動が起こった。怒った横光がこの話を『文藝春秋』に持ち込み、佐藤春夫を弾劾したのである。

 ただし、佐藤の『詩文半世紀』では、問題は富ノ澤の母親の側にあったとされている。富ノ澤は東京にいる間に「ヒラリヤ」に感染したらしく(後に病名を「ワイル氏病」に訂正)、和歌山県に着いてから発病。見舞いに来た富ノ澤の母親が食事制限を受けている息子にヤツメウナギを食べさせたために胃腸を壊し、それが直接死因につながったようである。横光が佐藤から聞いた話によると、錯乱状態に陥った富ノ澤は、女性器の名称を突然口走り、最後に「佐藤春夫、萬歳」といってから息絶えたという。後日、横光は『文藝春秋』で佐藤に謝罪した。今となっては何が真相なのか明確には分からない。

 この出来事について、富ノ澤と知り合いだった井伏鱒二は、「母ひとり子ひとりで、子ひとりが亡くなつたのだ。途端にお母さんは、とんでもない妄想を起し、妄想は妄想を生んだらう」(『新潮』昭和44年1月号)と書いている。横光はその後も親友の母親(後に尼になった)を放っておけず、季節の変わり目ごとに仕送りをしていた。富ノ澤の母親が癖のある人物だったことは、濱田隼雄の労作『富ノ沢麟太郎伝』や中山義秀の『私の文壇風月』にも痛烈さを以て書かれているが、横光が親友の母親をないがしろに出来なかったのは、富ノ澤麟太郎の存在が彼にとっての聖域だったからだろう。

 私の手元にあるのは、1936年に横光が編纂した『富ノ澤麟太郎集』(沙羅書店)である。目下、富ノ澤の作品を網羅したものはこれしかなく、限られた古本屋でしか入手することが出来ない。そのため知る人ぞ知るマイナー作家になっているのは惜しいことである。
 今後発行される機会が到来することを願わずにはいられないが、その時は何でもかんでも新字体、新仮名づかいにするのではなく、なるべく執筆当時の字体と仮名づかいを尊重してほしいと思う。言葉の意味だけでなく、文字の形やその組み合わせや味わいからも独特の雰囲気を出すために、どのように書いてみせるか。そういう細部に富ノ澤の煌々たる意思が介在しているように感じられるからだ。
(阿部十三)


【関連サイト】
富ノ澤麟太郎「あめんちあ」(青空文庫)