文化 CULTURE

伊東靜雄 それがいかに光耀にみちてゐるものであつても

2014.06.14
伊東靜雄の詩

 伊東靜雄の詩には太陽があり、光があり、灯がある。それらはほとんど例外なく闇の中にありながら感取されたものである。深い闇を知る者だからこそ、きらめくもの、輝けるものに敏感になる。そして、その光耀はすぐそばに終わりがあること、すぐそこにむなしさや闇がひろがっていることを知るゆえに、一層美しく、貴いものとなり、時に悲しみを伴うものとなる。とりわけ最初の詩集『わがひとに與ふる哀歌』の眩さは熾烈といえるほどで、かえって詩人が「意識の暗黒部との必死な格闘」(1948年2月13日、桑原武夫宛書簡)をしていることをうかがわせる。

 その詩は日本語の語法的にあえて読みにくくしているところがある。詩の節々に込められた強い想念は伝わってくるが、それが論理的に整理された思想として流動食のように消化されることはない。むしろ日本語特有の綾がほぐされない状態で、そのまま私たちの血肉に溶解せず付着してくる感覚をもたらす。まるで凝縮された心情のちぎり絵のようである。

 伊東が西洋の詩や絵画やクラシック音楽を好んでいたことは事実として、まず短歌や俳句に親しんだ人であり、日本語を究めた人でもあることを忘れてはならない。言葉のつかい手としての伊東の態度は峻厳かつ周到である。その日本語観を端的に示す短いエッセイがあるので、ここに引用しておく。大阪毎日新聞(1943年9月12日)に掲載された「讀み方」である。

「わが國の文學の道は、言靈の風雅といふことにある。それは、文字の隠微なところに宿るのだ。まあ大凡の要旨はかうであるとか、かうだからかうなるといつた風の性急で粗雜な讀み方では感得出來ないだらう。發想法のことは一番根本的で肝腎なことだが、短文であるからここではいはない。もう少し輕いことでいふなら、助詞や助動詞のやうな、それだけでは意味のない言葉こそが、名詞や動詞のやうに誰にも明瞭である言葉より大切だ、といつてもいいのだらう」
(「讀み方」)

 『三人』(1941年6月号)に掲載された「文章」には、「僕ら詩人が平素詩で表現しようとするーーといふより表情しようとするーーものには題材といふものはない」という一文がある。伊東はその「詩で表情する」行為に神経をつかい、時に表情を隠すことにエネルギーを費やした。伊東の詩には隠されていること、あえて書かれていないことが多く、それは重層的な言葉の綾の底に隠滅している。読者はその隠滅のただならぬ痕を見て、ここには何かがあると感じるばかりである。『春のいそぎ』に収められた「山村遊行」という詩で、「わが歌は漠たる憤りとするどき悲しみをかくしたり」とうたっているように、誰にでも分かる表情を出さず、安易な解釈を拒み、純粋に詩的言語の持つ力で読者の胸をつかえさせるのも、伊東の作品の特徴といえる。


『わがひとに與ふる哀歌』について


 初期の伊東の詩に注目した人の中で、最も影響力があったのは保田與重郎と萩原朔太郎である。1935年に『わがひとに與ふる哀歌』が出版された際、保田はその広告文で「彼は心情をうたふのみでなく心情で歌ふのだ」、「彼の詩には早くもせつぱつまつた何かしかない」と紹介し、萩原朔太郎は「日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い悦びと希望をおぼえた。これこそ、真に『心の歌』を持つてるところの、真の本質的な抒情詩人であつた」、「これはまさしく『傷ついた浪漫派』の詩であり、『歪められた島崎藤村』の歌である」と讃えている。

 『わがひとに與ふる哀歌』に収められた詩はどれも有名だが、とくに引用され、論じられる機会が多いのは、「曠野の歌」と「わがひとに與ふる哀歌」である。私が最初に知った伊東の詩も、「わがひとに與ふる哀歌」だった。これは立原正秋の『男性的人生論』に引用されていたのだが、その詩句にふれると、ただちに本を閉じ、伊東靜雄の詩集を図書館へ探しに行ったものだ。学生時代の話である。

  わがひとに與ふる哀歌

 太陽は美しく輝き
 あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
 手をかたくくみあはせ
 しづかに私たちは歩いて行つた
 かく誘ふものの何であらうとも
 私たちの内の
 誘はるる清らかさを私は信ずる
 無縁のひとはたとへ
 鳥々は恒に變らず鳴き
 草木の囁きは時をわかたずとするとも
 いま私たちは聴く
 私たちの意志の姿勢で
 それらの無邊な廣大の讚歌を
 あゝわがひと
 輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
 音なき空虚を
 歴然と見わくる目の發明の
 何にならう
 如かない 人氣ない山に上り
 切に希はれた太陽をして
 殆ど死した湖の一面に遍照さするのに


 最初の4行は、それだけで何か危ういものを感じ取らせる。そのように触発するのが、「あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ」であることはいうまでもない。この詩句があるのとないのとでは大きな違いである。現実的な行動の中に没しきれずにいる伊東は、己の中心にある激しい思念に神経を集中させ、厳しく選定された言葉にすべてを込めて、慎重に組み合わせる。その果てに、索漠としながらも確かな力を以て響く哀歌を生み出した。これを初めて読んだ時の戸惑いは、今でもしこりのように私の心に残っている。

 「わがひと」が何を指すのかについてはたびたび論じられているが、その際、必ずといっていいほど挙げられる名前が酒井百合子である。京大生時代(1926年から1929年まで)、貧乏書生だった伊東は、同郷(長崎県諫早)の先輩であり裕福な酒井小太郎の家に出入りしていた。百合子はその酒井家の娘である。2人の手紙のやりとりは、大学卒業後も続いた。そして1935年11月2日、『わがひとに與ふる哀歌』が出版された翌月、百合子宛の手紙に次のように書かれることになる。

「私の詩はいろんな事實をかくして書いてをりますので、他人にはよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくくない筈です。あなたにもわからなかつたら、もう私の詩もおしまひです」

 こういう手紙が存在することを踏まえたとしても、「わがひと」をそのまま実在の百合子に置き換えるのは安直である。百合子の証言によると、伊東とは恋仲であったことはおろか、2人だけで出かけたこともない。「余りに優越感を持ちすぎ、育ちのちがいで全く無遠慮」な伊東に対し、嫌悪感すら抱いていた節がある。森田草平の『煤煙』のような展開を期待しても詮無きことだ。

 「わがひと」に百合子の残像が重なっていることは間違いないが、それは、故郷長崎を離れ、大阪の住吉中学校の国語教師になり、生徒に「こじき」というあだ名をつけられながら教鞭をとり、女学校教諭の山本花子と結婚し、家庭生活を営むうちに、別次元の記憶として培養されている。もっといえば、現実の世界では求めて得られず、にもかかわらずまだ己の血の中にどうしようもなく浮かんでいる暗い浪漫全ての残像と呼ぶべきものである。その残像は、「曠野の歌」の詩句を用いるならば、「わが痛き夢」から醒めることなき詩人の姿、「晴れた日に」の詩句を用いるならば、「私の放浪する半身」にまで拡大されているのだ。
続く
(阿部十三)

【関連サイト】
伊東静雄詩集(書籍)
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