高村山荘にて 高村光太郎の書に宿るもの
2017.06.03
高村光太郎は1945年5月に岩手の花巻に疎開して同地で終戦を迎え、10月から太田村山口に建てられた小屋に住み、7年の月日を過ごした。花巻に来たのは、東京のアトリエが4月の空襲で罹災し、宮沢賢治の弟に招かれたからだが、そのまま留まったのは本人の意思である。その小屋は「高村山荘」として現在も残っていて、套屋によって保護されている。
高校卒業まで約10年間岩手に住んでいた私は、かつて何度もこの山荘に足を運んだ。つい最近も、帰省したついでに行ってみた。山荘の近辺は道路が整備されているので、交通は便利だが、それでも厳しい自然の中にある、と思わされる。まして時代は戦後である。都会人が老後に移り住むには、なかなか過酷な地だ。しかし62歳の高村光太郎はこの地を選び、69歳までここに住み続けた。「山の雪」(1950年12月稿)には、周辺の様子について、こう書かれている。
「わたしの小屋は村の人たちのすんでいるところから四百メートルほど山の方にはなれていて、まわりに一けんも家はなく、林や野はらや、少しばかりの畑などがあるだけで、雪がつもるとどちらを見てもまつしろな雪ばかりになり、人つこひとり見えない。むろん人のこえもきこえず、あるく音もきこえない。小屋の中にすわつていると、雪のふるのは雨のように音をたてないから、世界じゆうがしずかにしんとしてしまつて、つんぼになつたような氣がするくらいだが、いろりでもえる薪がときどきぱちぱちいつたり、やかんの湯のわく音がかすかにきこえてくる。そういう日が三ヶ月もつづく」
大詩人で彫刻家としても名を成した人が、なぜこのような山荘で暮らしていたのか。私が昔よく学校で聞かされたのは、戦時中、「琉球決戦」「勝このうちにあり」のような戦意高揚詩や、「戦争と詩」のような文章を書いていたことへの反省や、それを読んで戦死した人々に対する「わが詩をよみて、人死に就けり」の責任を感じたことから、「自己流謫」の心境で寒々しい村に隠棲したという話だった。端的に言えば、戦争責任である。しかし、事はそう単純ではない。
しばしば引用される詩「典型」の中の「小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。」を自罰や慚愧の表現とする傾向は昔も今も変わらずだが、詩全体を読むと、己を否定的にとらえているようには思えない。有名な詩「『ブランデンブルグ』」も同様で、たしかに「自己流謫」の言葉は出てくるが、その後に続く詩句を見落とすべきではない。
おれは自己流謫のこの山に根を張つて
おれの錬金術を究尽する。
おれは半文明の都会と手を切つて
この辺陬を太極とする。
これは世に背を向けた隠者の言葉ではない。「おれ」が信じる美を積極的に希求する決意の言葉だ。当時の高村が具体的にどういうビジョンを抱いていたのかは、手紙を読むことである程度窺知することができる。終戦から4日後の8月19日、東京、茨城、山形、岩手など各地にいる知己、友人に宛てた手紙に、太田村において「十年計畫」で「日本最高文化の部落」を創建すると書いているのだ。「戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を壓倒すべきです」と書くその気概に、意気消沈した詩人の姿をみることは難しい。2ケ月後、いよいよ小屋へ移る直前の手紙には、「大に愉快です」「大に颯爽たるものがあります」といった言葉もみられる。こうした心境が、8月16日午前に書かれた詩「一億の號泣」の最後の4行の延長線上にあることは言うまでもない。
鋼鐵の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
眞と美と到らざるなき我等が未來の文化こそ
必ずこの號泣を母胎としてその形相を孕まん
なぜ太田村を選んだのか。1945年9月12日、千葉に住む同い年の詩人水野葉舟に宛てた手紙にはこう記されている。「これまでのやうな所謂文化ではない、眞の日本文化が高く築かるべきです。大地と密接な關係を持ち、自己の生存を自己の責任とする營みの上に築かれる至高の文化こそ望ましいものと考へます」。そして、「東京化しかけてゐたこの郷土をもう一度純粹にしたいものです。文化とは便利化だと思ってゐるやうな地方人の眼をさまして眞に進んだ生活のある事を具體的に知らせたい念願です」と続けている。ここにはかつて「道程」で「常に父の気魄を僕に充たせよ」と書き、「さびしきみち」で「そはわがこころのちちははにして またわがこころのちからのいづみなれば」と書いた詩人の情熱が脈打っている。むろん、現実的な理由として、自分のことを気にかけてくれる宮澤家が花巻にいたのも大きかったろうが。
しかしながら、高村の心の奥にあるものは見きわめがたい。とくに1938年に妻智恵子が亡くなって以降の高村を分析するのは困難である。手紙にも本音ばかりを書いていたとは思えない。敗戦で無力になってはいけないと自他を鼓舞する気持ちもあったろう。その辺の胸中は余人の干渉を許さない。そして、不便な生活を当たり前のように重ねるうちに、余所者的立場とはまた異なる境地、すなわち、自然というものを実際的に解して結びつく境地に至ってからは、より得体が知れなくなる。
そんな高村の心を窺知する上で参考になるのは、書である。高村は岩手の小屋に住んでいる間、好んで書に取り組んでいた。それらの揮毫は、「書について」(1939年7月稿)に記された自身の見識に基づく形で為されたものだ。彼はこのエッセイで、唐代の顔真卿の書を称賛した上で、次のように締めている。
「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。惡筆は大抵餘計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興つて惡筆天下に滿ちるの觀があるので自戒のため此を書きつけて置く」
「書の究極は人物に歸する」と考えていた高村が、この文章を書のみの問題として書いていなかったことは明らかだ。戦中の彼はこれを実践できなかったが、戦後になって実践し、力を内に秘めて騒がず、都会の喧騒を離れ静かに生活しながら、自身が求めるものを、情熱を先走らせることなく、腰を据えて突き詰めた。自然の中に入った彼が、「季節のきびしさ」(1948年6月稿)の最後に、「山に棲んでみてはじめて私は一年三百六十五日の日々の意味をはつきり知つた」と記したのは、心底からの本音だったにちがいない。「山の人々」(1951年1月稿)の中で、「文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて惡いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような氣がする」と書いているのも、「十年計畫」の半分以上を過ごした後の実感として受けとめると、重みがある。
一方で、高村のように強烈な自我を持つ人が、60歳を過ぎて田舎で独居して素朴になった、と簡単に言って済ませることには抵抗を覚える。高村は自然を美、人工を醜としたが、その書をじっと見ていると、自然も人工ものみ込む人物像が、浮かび上がってくる心地がする。単純な美も複雑な美も味到せんとする巨人の爪痕のようである。露骨な激情の書ではないが、それは「無理と無駄との無い」書にいそしむことで自己を修め、ともすると燃え盛る自我を律していたからにほかならない。
「いくらまはされても針は天極をさす」の書を見ても、無駄な力のない蕭条たる自然の空気と共に、何物のためにも譲歩しない強い意志が感じ取れる。もとより我を張っている状態ではこういう風には書けない。かといって自然にまかせて書いたとも言えず、透明な意志の結晶とでも言いたいような魅力がある。山口小学校の学童に贈られた「正直親切」の書も、まさにこの四文字にふさわしい素朴さをたたえているが、奥にある精神は深い。
高村は岩手を離れ東京へ戻ってから、「最後の芸術」として本格的に書に取り組む心積もりだったようだが、それはあまり果たされることなく、1956年4月に亡くなった。ただ、岩手で書かれた揮毫の数々が、一筋縄ではいかない高村光太郎の心柄を伝えている。むしろその書は、書聖の境地に達していないところで書かれたものだからこそ、見る者の心を動かし、さまざまに感じさせるのだと言える。
【関連サイト】
高村山荘・高村光太郎記念館
高校卒業まで約10年間岩手に住んでいた私は、かつて何度もこの山荘に足を運んだ。つい最近も、帰省したついでに行ってみた。山荘の近辺は道路が整備されているので、交通は便利だが、それでも厳しい自然の中にある、と思わされる。まして時代は戦後である。都会人が老後に移り住むには、なかなか過酷な地だ。しかし62歳の高村光太郎はこの地を選び、69歳までここに住み続けた。「山の雪」(1950年12月稿)には、周辺の様子について、こう書かれている。
「わたしの小屋は村の人たちのすんでいるところから四百メートルほど山の方にはなれていて、まわりに一けんも家はなく、林や野はらや、少しばかりの畑などがあるだけで、雪がつもるとどちらを見てもまつしろな雪ばかりになり、人つこひとり見えない。むろん人のこえもきこえず、あるく音もきこえない。小屋の中にすわつていると、雪のふるのは雨のように音をたてないから、世界じゆうがしずかにしんとしてしまつて、つんぼになつたような氣がするくらいだが、いろりでもえる薪がときどきぱちぱちいつたり、やかんの湯のわく音がかすかにきこえてくる。そういう日が三ヶ月もつづく」
(高村光太郎「山の雪」)
大詩人で彫刻家としても名を成した人が、なぜこのような山荘で暮らしていたのか。私が昔よく学校で聞かされたのは、戦時中、「琉球決戦」「勝このうちにあり」のような戦意高揚詩や、「戦争と詩」のような文章を書いていたことへの反省や、それを読んで戦死した人々に対する「わが詩をよみて、人死に就けり」の責任を感じたことから、「自己流謫」の心境で寒々しい村に隠棲したという話だった。端的に言えば、戦争責任である。しかし、事はそう単純ではない。
しばしば引用される詩「典型」の中の「小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。」を自罰や慚愧の表現とする傾向は昔も今も変わらずだが、詩全体を読むと、己を否定的にとらえているようには思えない。有名な詩「『ブランデンブルグ』」も同様で、たしかに「自己流謫」の言葉は出てくるが、その後に続く詩句を見落とすべきではない。
おれは自己流謫のこの山に根を張つて
おれの錬金術を究尽する。
おれは半文明の都会と手を切つて
この辺陬を太極とする。
(高村光太郎「『ブランデンブルグ』」)
これは世に背を向けた隠者の言葉ではない。「おれ」が信じる美を積極的に希求する決意の言葉だ。当時の高村が具体的にどういうビジョンを抱いていたのかは、手紙を読むことである程度窺知することができる。終戦から4日後の8月19日、東京、茨城、山形、岩手など各地にいる知己、友人に宛てた手紙に、太田村において「十年計畫」で「日本最高文化の部落」を創建すると書いているのだ。「戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を壓倒すべきです」と書くその気概に、意気消沈した詩人の姿をみることは難しい。2ケ月後、いよいよ小屋へ移る直前の手紙には、「大に愉快です」「大に颯爽たるものがあります」といった言葉もみられる。こうした心境が、8月16日午前に書かれた詩「一億の號泣」の最後の4行の延長線上にあることは言うまでもない。
鋼鐵の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
眞と美と到らざるなき我等が未來の文化こそ
必ずこの號泣を母胎としてその形相を孕まん
(高村光太郎「一億の號泣」)
なぜ太田村を選んだのか。1945年9月12日、千葉に住む同い年の詩人水野葉舟に宛てた手紙にはこう記されている。「これまでのやうな所謂文化ではない、眞の日本文化が高く築かるべきです。大地と密接な關係を持ち、自己の生存を自己の責任とする營みの上に築かれる至高の文化こそ望ましいものと考へます」。そして、「東京化しかけてゐたこの郷土をもう一度純粹にしたいものです。文化とは便利化だと思ってゐるやうな地方人の眼をさまして眞に進んだ生活のある事を具體的に知らせたい念願です」と続けている。ここにはかつて「道程」で「常に父の気魄を僕に充たせよ」と書き、「さびしきみち」で「そはわがこころのちちははにして またわがこころのちからのいづみなれば」と書いた詩人の情熱が脈打っている。むろん、現実的な理由として、自分のことを気にかけてくれる宮澤家が花巻にいたのも大きかったろうが。
しかしながら、高村の心の奥にあるものは見きわめがたい。とくに1938年に妻智恵子が亡くなって以降の高村を分析するのは困難である。手紙にも本音ばかりを書いていたとは思えない。敗戦で無力になってはいけないと自他を鼓舞する気持ちもあったろう。その辺の胸中は余人の干渉を許さない。そして、不便な生活を当たり前のように重ねるうちに、余所者的立場とはまた異なる境地、すなわち、自然というものを実際的に解して結びつく境地に至ってからは、より得体が知れなくなる。
そんな高村の心を窺知する上で参考になるのは、書である。高村は岩手の小屋に住んでいる間、好んで書に取り組んでいた。それらの揮毫は、「書について」(1939年7月稿)に記された自身の見識に基づく形で為されたものだ。彼はこのエッセイで、唐代の顔真卿の書を称賛した上で、次のように締めている。
「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。惡筆は大抵餘計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興つて惡筆天下に滿ちるの觀があるので自戒のため此を書きつけて置く」
(高村光太郎「書について」)
「書の究極は人物に歸する」と考えていた高村が、この文章を書のみの問題として書いていなかったことは明らかだ。戦中の彼はこれを実践できなかったが、戦後になって実践し、力を内に秘めて騒がず、都会の喧騒を離れ静かに生活しながら、自身が求めるものを、情熱を先走らせることなく、腰を据えて突き詰めた。自然の中に入った彼が、「季節のきびしさ」(1948年6月稿)の最後に、「山に棲んでみてはじめて私は一年三百六十五日の日々の意味をはつきり知つた」と記したのは、心底からの本音だったにちがいない。「山の人々」(1951年1月稿)の中で、「文化ということもあまりせつかちに一部分だけにつぎこむと、かえつて惡いこともある。こういう古いけれどもいいならわしのあるところは、ゆつくり進む方がよいような氣がする」と書いているのも、「十年計畫」の半分以上を過ごした後の実感として受けとめると、重みがある。
一方で、高村のように強烈な自我を持つ人が、60歳を過ぎて田舎で独居して素朴になった、と簡単に言って済ませることには抵抗を覚える。高村は自然を美、人工を醜としたが、その書をじっと見ていると、自然も人工ものみ込む人物像が、浮かび上がってくる心地がする。単純な美も複雑な美も味到せんとする巨人の爪痕のようである。露骨な激情の書ではないが、それは「無理と無駄との無い」書にいそしむことで自己を修め、ともすると燃え盛る自我を律していたからにほかならない。
「いくらまはされても針は天極をさす」の書を見ても、無駄な力のない蕭条たる自然の空気と共に、何物のためにも譲歩しない強い意志が感じ取れる。もとより我を張っている状態ではこういう風には書けない。かといって自然にまかせて書いたとも言えず、透明な意志の結晶とでも言いたいような魅力がある。山口小学校の学童に贈られた「正直親切」の書も、まさにこの四文字にふさわしい素朴さをたたえているが、奥にある精神は深い。
高村は岩手を離れ東京へ戻ってから、「最後の芸術」として本格的に書に取り組む心積もりだったようだが、それはあまり果たされることなく、1956年4月に亡くなった。ただ、岩手で書かれた揮毫の数々が、一筋縄ではいかない高村光太郎の心柄を伝えている。むしろその書は、書聖の境地に達していないところで書かれたものだからこそ、見る者の心を動かし、さまざまに感じさせるのだと言える。
(阿部十三)
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