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小町随想 [続き]

2017.12.30
 小野小町の晩年については、幾つかの伝承がある。有名なのは、流浪の身となり、落魄して死んだというものだ。事実かどうか定かでないまま小町の物語として伝わってきた『玉造小町子壮衰書』や、それを基にした逸話を載せた『古今著聞集』『徒然草』などの影響だろう。『平家物語』の巻第九にも、小野小町について「心強き名をやとりたりけん、はてには人の思のつもりとて、風をふせぐたよりもなく、雨をもらさぬわざもなし」とある。気が強かったために、男たちの思いを積もらせた報いで、風雨にさらされる生活を送る羽目になったというのだ。

 なんとなく、小町なら落ちぶれたことにしてもいいという一種の風潮のようなものを感じる。零落説が仏教思想と結びついてどうこうという話以前に、なぜ小町でなければならなかったのか。そこには幾つかの要因があるだろう。そもそも、(歌人としては評価されていたとしても)女性としての小町は同時代の人々にどう見られていたのか。その噂や評判が零落説の土台になっているのではないか。

ともすれば あだなる風に さざ波の なびくてふごと 我なびけとや

結びきと いひけるものを 結び松 いかでか君に とけて見ゆべき

今とても 変わらぬものを いにしへも かくこそ君に つれなかりしか


 この三首は小町集に収められている。いずれも自分に言い寄る(おそらく身分ある)男たちを拒む歌である。その内容は、相手に「靡くわけがない」「打ち解けるわけがない」と告げたり、「昔も今も変わらず、私は貴方のことを相手にしていません」と突っぱねたりと、なかなか痛烈だ。小町には心に決めた人、「結びき」の相手がいた。袖にされたことを恨む色男たちは多かったにちがいない。小町に性器がなかったという俗説も、そういう男たちがまず広めたと思われる。根も葉もない噂がはびこっていたため、零落説も定着しやすかったのだ。いつの時代にも、こういうことは起こりうる。

 百夜通いの伝説も、プライドが高く、男に対して慎重な小町像が発展して生まれたものだろう。小町が深草少将に、百夜私の所に通い続けたら、あなたのものになりましょうと約束し、少将は九十九夜通ったが、最後の晩に大雪で凍死するという話だ。菊池寛の戯曲では、実は少将が通ったのは七十七夜までで、あとは雑色に通わせていたという設定になっている。してやられた小町は憤慨し、その雑色を家に連れ込もうとするが、逃げられる。

 無論、かつて自らを「花」とたとえるほどの美貌を誇り、男たちの誘いに容易に靡かなかった彼女が容色衰え、気力も萎え、「わびぬれば」と歌うまでになった後、幸福になったとは考えにくい、という見方もできる。彼女が美人で、教養高く、才能に溢れているだけでなく、無常を知り、無常を歌う女性であったということが、零落説に結びつくのである。

 次の歌は、檀林皇后もしくは小野小町の歌として、今日に伝わっている。真偽は定かでない。

我死なば 焼くな埋(うず)むな 野にさらせ 痩せたる犬の 腹を肥やせよ

 檀林皇后と小野小町それぞれの九相図が存在することは、よく知られている。死を迎え、死体が変色し朽ちて、犬やカラスの餌となり、白骨化し、土に還るまでを生々しく描いた絵で、無常観が表現されているだけでなく、不浄観も意図されている。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』を読んだことがある人なら、美しい愛妻を藤原時平に奪われた藤原国経が、煩悩を滅するために死体置き場で夜を過ごす場面があったことを覚えているだろう。それを、絶世の美女を題材にした絵を通して、実践するのである。歌の作者なのかどうかはっきりしないのに、ここまでやってしまうのがすごい。

 思想書が教えることは多いが、歌や詩が教えることはさらに多い。私は西洋の懐疑主義も実存主義もプラグマティズムも科学哲学も好きだが、結局のところ最後に自分自身の中に残る思想は、整然たる論理ではなく、歌や詩の精神なのではないかという気がしてならない。無論、詩の中には俳句も入る。保田與重郎が『芭蕉』に記した「最も深いものを、日本の思想として語った人々が、我国では詩人であった」という一文は、核心をついている。
 好きな思想家は誰かときかれたら、私の場合は「小野小町」と答えてもよいのである。大伴旅人や柿本人麻呂の名前を挙げても、本来の日本人の感性に従うなら、的外れな選択ではない。西洋の詩にもランボーやリルケのように日本人の心に響くものがたくさんあるが、その受け入れ方は、感性を豊かにするという程度を超えた思想的感受と言える。これは「人の心を種」とした言葉の力に動かされやすく、心の糧とする私たちの気質なのかもしれない。
(阿部十三)


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小町随想
小野小町(書籍)