文化 CULTURE

夏目漱石 『彼岸過迄』 「須永の話」で語られたこと

2018.09.22
主観で語られた「須永の話」

 ここでは『彼岸過迄』の約三分の一を占める「須永の話」で語られた内容を検討する。田口の娘で、須永市蔵とは従妹の関係にあるヒロイン、千代子の後ろ姿を見ただけで興味を抱いた敬太郎は、須永と千代子を「結び付ける縁の糸を常に想像」するようになり、須永が千代子のことをどのように考えているのか聞き出す。そして須永の隠されていた感情にふれ、従兄妹が心理的な作用を及ぼし合い、一緒になれば不幸になり、一緒にならなければまたそれはそれで不幸になるという複雑さを抱えていることを知る。

 二人の間には、健康体で明朗快活な高木という男が当て馬のように割って入るが、千代子が愛しているのは須永である。「大学三年から四年に移る夏休み」のこと、須永は母親と共に千代子たちがいる鎌倉へ行き、そこで高木という男が千代子と仲良くしているのを見て、嫉妬し、競争を拒否して一人で東京へ帰る。競争によって何方へ動いてもいいような女なら、競争するに値しないというわけだ。競争を拒否するのは、競争の必要がないほどに強く結ばれた運命の糸を欲する心理の裏返しでもある。

 しかし翌日、鎌倉に残された須永の母親を送るために、千代子がお供をして東京に一時帰ってくる。そこで千代子は感情を爆発させる。その表現は高笑いに始まり、須永の卑怯さを責め、しまいに泣き出して、「貴方は妾(あたし)を......愛していないんです」と言う。出口を失って破裂した絶望的な愛の表現である。

 奇妙なのは、ここで断絶したかに見えた須永と千代子の交流が、作品内の「現在」でもまだ続いているということだ。敬太郎が須永の家に入って行く千代子を見かけるのも、夏休みの出来事から一年以上経った後、つまり須永も敬太郎も大学を出た後のことである。須永の叔父・松本は、「二人の関係は昔から今日に至るまで全く変らない様だ。二人に聞けば色々な事を云うだろうが、それはその時限りの気分に制せられて、真しやかに前後に通じない嘘を、永久の価値ある如く話すのだと思えば間違いない」と断じている。

 「その時限りの気分に制せられて、真しやかに前後に通じない嘘を、永久の価値ある如く話すのだ」としたら、須永が話したことには客観性がないことになる。「須永の話」がもたらす印象は悲劇的だが、これはあくまでも須永が主観で話したことである。彼の中では真実だとしても、細部が劇的に強調されていないとも限らない。その細部をばっさりと省いて「須永の話」を冷たい目で俯瞰するなら、幼馴染との関係性を変えたくない男が、変わらざるを得ない時期に来て悩み、女の方が多少男に揺さぶりをかけながらも、できるだけ男に合わせてあげている内容のように見えなくもない。

アンドレーエフの『ゲダンケ』

 私が須永の主観を強く感じるのは、その話の内容に、彼が衝撃を受けたというロシアの作家、アンドレーエフの『ゲダンケ』の影響を認めるからである。これは上田敏訳で『心』と題されて出版され誤訳論争を生んだ作品としても知られる。小説の内容は悲惨としか言いようがない。まず医者がある女性に求婚し、高笑いされて拒絶される。挙句、女性は医者の友人(作家)と結婚する。医者は女性を絶望させるため、罪に問われない形で友人を殺害することを計画、狂人を演じて周囲にその悪評を広めた上で、友人を文鎮で撲殺する。しかしその段階で、狂人を装っているのか本当に狂人になっているのか、もはや自分でも判別がつかなくなっている。

 医者は殺人の動機について、女性への愛情や友人への嫉妬ではなく、不快な笑い声で感情を害されたことを第一に挙げている。「須永の話」で千代子が須永に浴びせる高笑いも、極めて侮蔑的で残酷なものに感じられるが、これは『ゲダンケ』の影響を受けた須永の中で必要以上に拡大された受け止め方であり、過剰な表現ではないかと推察される。「読み耽らない癖に、小説家というものを一切馬鹿にしていた」ため、刺激のある小説に免疫がなく、まともに感化されたのである。

 もうひとつ気になるのは、『ゲダンケ』の話が出てくる前後から、小間使の作にスポットが当てられ、須永が作の印象を好意的に語り出すことだ。『ゲダンケ』の主人公も小間使と無縁ではなく、かつて父親と関係していた小間使と寝たことがあり、今も自分の家にいる小間使と関係を結んでいる。この小説の設定に影響され、須永は小間使いの存在を意識するようになったのだろう。ちなみに、須永は父親と小間使との間に生まれた子だが、『ゲダンケ』を読んだ時点ではまだそうとは知らず、自分の出自を怪しむ程度だった。なので、「小間使いの子である須永が、小間使いの作を意識した」とまで書くのは誤りである。

 須永と千代子の特殊な関係は他者の介在を許さぬものであり、二人は自分たちの間にあったことについていくらでも好きなように他者に言えるが、他者には口出ししてもらいたくないという鉄の外壁を備えている。畢竟、須永の話はこういう関係性の中で、「その時限りの気分」でむしろ拡張され、敬太郎に披露されたものとみることが出来る。

 ところで、千代子と高木の関係はどうなったのか。鎌倉での出来事の後、千代子は上海に行った高木と手紙を交わしていた。そこで松本は、千代子と高木を結婚させればいいと言うが、娘の気性を知る田口は言葉を濁す。これも「現在」から一年ほど前のことなので、今は立ち消えになったのだろう。最近もまた結婚話が浮上したようだが(相手が高木かどうかは分からない)、敬太郎からその話題を持ち出された須永は興奮することなく、「今までもそう云う話は何度もあった」と「陳腐らしそうに」説明する。須永と千代子にとってはお決まりのイベントなのである。

 しかしながら、須永が今のままの状態で千代子と結婚すれば、『彼岸過迄』の次に書かれる『行人』のような展開になるだろう。『行人』で一郎は、「嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕が既に僕の妻をどの位悪くしたか分からない」と語るが、これは千代子と結婚したあと、純粋な感情を持つ彼女を変えてしまった須永の言葉としても通用する。実際に須永は、「千世子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない」と語り、「彼女から云えば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎない」とシミュレートしている。

須永の人物像

 「停留所」から「雨の降る日」まで、須永は行動を起こさぬ退嬰主義に身を埋め、親戚の子供の死にも大して心を動かされない冷めた人物として我々の前に現れるが、「須永の話」から、実は心の動きが激しく、陰性の癇癪持ちであることが明らかになる。彼は生の美酒に酔うことができないが、人間関係の渦の中にいるいわば動的な人間である。

 須永は家庭の中に調和している高等遊民の松本と異なり、平和な家庭に落ち着くことが出来ない。その点では森本寄りの人物だと言える。体型的にも森本と須永はコンプレックスを抱いている節があり、森本は敬太郎の、須永は高木の肉付きのよさに注目している。話術があるところ、冒険家であるところも同じだ。森本が酒に酔って外に向けて冒険するのに対し、須永は酒に酔えず内に向けて冒険をしているのである。行動する者と行動しない者とで一見正反対に見える森本と須永は、作品内で呼応している。

 私は学生時代、初めてこの作品を読んだ時、ある小説との関連に考えを巡らせた。『彼岸過迄』の四年前に発表された正宗白鳥の『何処へ』である。ここに記された「主義に酔えず、読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己の才智にも酔えぬ」主人公菅沼健次の心境は、須永のものと似ている。健次は「脆弱な体質」の持ち主でもある。友人の妹との結婚をすすめられると、それをうとましく思い、全くその気になれず、いざ彼女が別の男と結婚するかもしれないと察すると、「不思議に気がむしゃくしゃして」くる。嫉妬がその一因であることは想像に難くない。もっとも、菅沼は不真面目ながらも働いているし、酒も飲み、女とも遊ぶが、須永が外の世界へ飛び出すことになれば、菅沼のようになりそうである。その印象は、私の中で今も変わらない。

 白鳥は『彼岸過迄』の「須永の話」を高く評価していた。千代子という人物に、「はじめて、漱石の頭から描きだされた潑刺たる女性」を見たといい、「彼女に対する須永の嫉妬焦慮の気持ちも読者の胸に迫る力を有っている。今まで漱石の作品には現れていなかった気持ちである」とまで書いている。ここで我々は、この「須永の話」にどのようなオチが付けられているか、改めて視点を定める必要がある。千代子を魅力的に語り、己の嫉妬焦慮を明かした須永は、最後に千代子のことを「唯勝気に充ちただけの、世間に有りふれた、俗ぽい婦人」として見せるのである。

 読者とは異なり、物事を俯瞰しているわけでもない敬太郎が、友人の話に当惑したことは想像に難くない。後ろ姿を見ただけで興味を抱いた女性の人物像は、須永の話の前半と後半で大きく変わったはずである。須永に悪意があったわけではない。彼はそのようにしか千代子のことを語れないのである。この話を聞かされた後、常人であれば、須永と千代子の間には立ち入れないと考えるだろう。おそらくこれは冒頭、「風呂の後」で敬太郎が四回眼を覚ました後、煙草を吸って白い枕を汚す行為とも符合する。この作品には白のイメージがちりばめられているが、その白さを司っているアイコンは他ならぬ千代子なのだ。それが「須永の話」を経て、白さを失っていくのである。
(阿部十三)


[参考文献]
蓮實重彦『夏目漱石論』(青土社 1978年10月)
柄谷行人『新版 漱石論集成』(岩波書店 2017年11月)
工藤京子「変容する聴き手」(『日本近代文学』 1992年5月)
前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房 1992年8月)